2009年04月11日

福島交通-原町-飯館の路線廃止 (会社更生法も申請)

福島交通-原町-飯館の路線廃止

(会社更生法も申請)
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飯館の坂を自転車で上るのが嫌だったからバスで行こうとしたらバスは廃止になっていた。福島交通も経営が悪化、遂には会社更生法を申請することになった。どう考えてもバスは何のために走っているのだろう、四五人がやっと乗っているだけでどうして経営できるのかといつも誰も思ってしまう。これは全国的にバスは乗っていない、バスに乗れないので磐城太田の駅の方をまわり片倉から八重米坂というところをいつものように越えてトンネルをくぐり津島まできた。そしたらそこで二本松のバスが新しくできた物産売り場の広場に止まっていてちょうど出る時刻だた。それで疲れたので二本松まで行くことにした。二本松までは相当遠いし体力なくなって行けなくなった。バスの運転手が途中自分の家に寄るためにとまった。四五人しか乗らないから急ぐ必要もない、若い女性が途中から乗ったが運転手と話していた。その女性は二本松までアルバイトに行くからいつも乗るのである。アルバイトにしても一時間以上かかる。つくづく二本松までは遠い、阿武隈の山中も相当広いのだ。阿武隈山地は養蚕とか葉たばことかが主な産業だった。川俣は集散地となり江戸時代から栄えた。

江戸時代には生糸(きいと)市や羽二重(はぶたえ)市が定期的に立ち、江戸城大奥に献上されるなどたいへんもてはやされた。

阿武隈山地のほとんどの農家は養蚕で暮らしを建てていた。だから養蚕をするための二階建ての家が今でも残っている。養蚕とか葉たばこは山では大きな産業だった。それで四国の貞光町ではウダツの古い町並が残っているのだ。タバコはそれだけ需要があり吸っていたからである。阿片じゃないがアフガニスタンとか山の中になると産業がないからそうなる。

ともかく車時代になったときバスは廃れた。車の前はみんなバスを利用していた。中国ではバスのタ-ミナルがあり汽車のように利用されている。江戸時代の山の中の暮らしはどうだったかとなるとまず二本松の城下までは相当遠いからめったに行けない、そして回りには大きな街はない、小さな町すらない、だからたまにたつ市で農業の道具など仕入れていた。そういうところでは医者などいない、ということは医者にかかれないということなのだ。ではどうしたのかというと薬師堂や地蔵様に祈るほかなかった。それで地蔵様にも耳にきく腰にきく眼にきくとか分担があった。老人になったら地蔵様に祈るほかなかった。城下に出れば医者がいたとしても遠すぎるからかかれないのだ。あの辺で有名なのは合戦場の枝垂桜である。バスの中からちょっと見たが確かに一見の価値がある。その枝垂桜の見物でバスがきていて店もでてにぎわっていた。桜の時期だけにぎわう場である。二本松の桜も満開だった。二本松ではやはり相馬の方いつも見て偲ぶことになる。江戸時代なら歩いてなら相当な距離である。滅多にこれない距離である。でも二本松の城は本丸が高いしあんな高いところに四方を見渡しいれば気持ちいい、一番あそこは見晴らしがいいのだ。今日は疲れたので二本松から電車で帰ってきた。最近自転車も疲れる。短距離しか走れない、バスとか電車を利用して折り畳み自転車で短距離になっている。だから山の中ではバスが利用できないと苦しくなる。今回は偶然時間がまにあった。そのあとは遅いから利用できない、本数が限られているからいつも利用できずに終わっていた。一時半まで津島に着かないと二本松行きのバスには乗れないので注意すべきだ。

津島からは二本松まで一五〇〇円かかった。途中からでもアルバイトに通う女性も一時間以上のったとすると一〇〇〇円かかったら往復二千円とかなったとしたら大変である。日常的にはバスは高いから利用できなくなっていたしついに倒産に追い込まれてしまう。
車のない人はすでに山では生活できないのである。
posted by 天華 at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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