
平将門の血を引くと言われる、奥州相馬氏の誕生は鎌倉北条氏(長崎氏)に圧迫を受け、茨城県下総地方から奥州(福島県相馬地方)に下向したので有る。元亨3年(1323年)頃かと思われ、当主は相馬重胤の時代で有った。奥州相馬家ではこの重胤を初代としている。
重胤が下向した道程は、茨城県下総地方(千葉県を含む)から白河口に向かい、ここから阿武隈高地の標葉(シネハ)の津島に出て、鉄山(現南相馬市)から太田川の上流に有る横川に沿って、片倉の八重米坂に着いたと言われる。

この時すでに八重米坂とういのはあった。片倉という地名もありのちに片倉村となった。もちろん太田という地名もあった。八重米の意味は米の種類というのではなく八重に重なる米の意味で米がたわわに実る場だったという意味かもしれない、米の種類を地名にすることには無理がある。この辺りは山であるから田を作るのに適していた。山を背にして日当たりのいい場所が米作りに適している。だから日本で最初に田が作られたのは県(あがた)なのである。この辺りが最初に田んぼが作られたところであるからこの地名がついた。片倉というところに社があるが妙見である。片倉というのは伊達政宗の重臣の片倉氏に由来するのか、その頃伊達氏が勢力をもっていたから片倉氏がこの辺を支配していて片倉になったのかわからない、ただ小浜城の脇に片倉と地名があるのは片倉氏と関係しているかもしれない、片倉は他にもあるからよくわからない、ここでわかったているのは
重胤は妙見、塩釜、鷲宮の三社を同じ神輿に乗せ、人目を避け・・・それは逃亡の旅でもありました。久慈川を遡り、三春、葛尾を経て行方郡に入り、太田川沿いに現在の原町市片倉に辿り着きます。ここで、太田村別所(現在の太田神社)の館の住人三浦左近国清と館の明け渡しの交渉を行い、ここに、ようやく安住の地を得ました。そして捧持してきた妙見尊を館の内に仮宮を建てて祀りました。
ここから上太田石積に住む「太田兵衛」に迎えられ、一時その屋敷に滞在し、さらに東数町の別所の館に住む「三浦左近」から館の提供を受けて移り、それより四年後の嘉歴元年(1326年)に小高町舘内(現南相馬市小高区小高神社)に移ったと言われる。
太田には塩釜神社があり鷲宮がありここに遷された神社である。三浦近国という人も実在の人物である。案内した太田兵衛も太田に住んでいた実在の人物である。 太田地区、片倉村の発展は八重米坂からはじまり下におりてきた。山側から広がっている地域は湿地帯になっていることが多い。山沿いに沿って家があるのはそのためである。神社も山側にある。
この片倉村でもう一つ注目したのが墓地に渡辺氏の墓が三つあった。これは分家してそうなった。墓がやたら増えたのは分家してそうなった。渡辺氏はここでは元は一つだったが分家した。村の中心には最初姓を同じくするものが住んだ。いわきの末続村では新妻氏であり栃窪村は大谷氏など村にはある一族が住みその姓を同じくする。葛尾村は三分の一が松本氏である。この村は渡辺氏である。それを証明していたのが旗印だった。
野馬追いの旗印をもっている武家は古い、その村の草分けなのである。いづれにしろ太田地域は最初に相馬氏が入ってきた地域であり太田神社は一番古い、次に小高神社であり城も小高にあった。小高から海側の村上城に移り中村に移り今の相馬市の城ができた。相馬藩内でもどこが古いかが問題になるのだ。相馬氏がこの地を支配する順序なら太田地域が一番古いとなる。その前に鹿島区の岩松氏がいたから相馬氏が一番古いわけではない、相馬氏の歴史としてみると太田地域が最初に相馬氏が土着した地域だから古いとなる。つまり郷土史は常に新旧をみるのが基本なのである。
この墓地には他に江戸時代の供養碑があるからこれは飢饉の供養碑だろう。供養とあれば飢饉の供養が多い。村の歴史を見るとき必ず墓地を見るとわかりやすい、墓地は必ずみるべきである。


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携帯090-2793-9210 小林 進
初めまして。佐藤です。母方は岡和田姓です。
北海道に移住した岡和田の子孫となります。
最近、伯父が岡和田氏の系図をまとめ
※1500年初期より現在までの系図です。
合戦の時の戦功などの記載もあります。
先祖代々受け継がれている刀もきれいにして
つい先月、見せてもらいました。
相馬野間追いの時に岡和田の薬師如来像も見にいった事があり昔、ご先祖様がここに住んでいたのだと感慨を覚えたものです。
原の町に北海道に移住する前に分かれた岡和田の親戚もおります。
小林様が何度か岡和田氏の事を書かれていらしたのでメール差し上げた次第です。
※系図によれば氏神は熊野大権現、降居大権現
鎮守は稲荷大明神とあります。何かの参考に
なりますでしょうか?岡和田氏(先祖)について色々、知りたいと思っております。
ある書籍(藩士帳)によれば岡田氏より分かれたとあるが定かではないとの記述もありました。
>原の町に北海道に移住する前に分かれた岡和田の親戚もおります。
原町の高平の墓地に岡和田氏の墓がありました、そこには古い五輪塔で青田氏の
墓があります、そこはかなり古い墓地です、その岡和田氏は鹿島の岡和田村から出たから岡和田氏の姓をなのった。小山田氏とか栃窪氏とかもいてそれは鹿島区の村の名前ですから
そういう武家もいます
>ある書籍(藩士帳)によれば岡田氏より分かれたとあるが定かではないとの記述もありました。
鹿島区に岡和田という地名がありその地名に土着して岡和田氏を名乗ったのか?
相馬氏系統に岡和田氏がいたのか岡田氏はいても岡和田氏は出自不詳となっているし
姓が地名化することはまれだから岡和田氏という地名があり土着した岡和田氏を名乗ったととるのが一般的ですが・・・・
つまり岡田氏→岡和田氏と分かれたということは証明されにくい、でも岡和田という地名が
どうしてできたのか謎です・・・
「鹿島町誌」に武家として佐藤武衛門という人がいました、佐藤氏は多いですが
ここの佐藤氏と関係しているのでしょうか?
氏神の降居大権現もあります
相馬藩からも北海道へ移住した人は相当います、その記録は残っているでしょう。
詳しく調べればどの辺に移住したかわかるでしょう
>先祖代々受け継がれている刀もきれいにして
>つい先月、見せてもらいまし
それは凄いですね、移住するとき大事に持っていったものでしょうか
鑑定すれば時代もわかる?、本物とすれば値打ちものですね
歴史を生々しく感じましたね
相馬藩は相馬野馬追いで武家の伝統がつづいていますから興味深いです
北海道からコメントいただいたのは意外でした、全国の人が読んでいるから
相馬郷土史でも広がりがある、本当に興味深いコメントありがとうございます
青田氏の墓のあるところに「岡和田氏」の墓もあります
この辺がどういう関係なのか解きあかされません
上高平の墓地には歴史が秘められているようですが
ここのところ忙しくて調べられません
墓はやはり歴史を語っているんですよ
ここを読んでください
http://musubu2.sblo.jp/article/36245436.html
私の先祖は原町市出身ですが、先日市役所より原戸籍を取り寄せましたら、天保年間が最古であり、佐藤重房とあり、前戸主が佐藤庄佐衛門とありました。重房は養子として庄佐衛門家の後継ぎと成ったようです、その後は重房〜喜作〜糺〜一郎(私の父は仁:一郎の弟であり糺の次男です)庄佐衛門という氏名がインターネットで、出てきて12第の相馬の殿様付(家格)とでていましたが、何か関係があるのでしょうか?現在の私(佐藤孝行〜仁の長男)は函館市富岡町2−37−12であります。叔父(一郎〜故人)の話では福島の家には鎧や刀があったそうですがみせてもらえなかったと聞きました。聞いた話では有りますが100〜200石取とか?言って降りましたが今となっては全くわかりません、佐藤庄佐衛門から上の先祖がわかるヒントが無いかと色々調べております。何かわかることがありましたら教えて下さい、宜しくお願いいたします。 失礼します。
>先日市役所より原戸籍を取り寄せましたら、天保年間が最古であり、佐藤重房とあり、前戸主>が佐藤庄佐衛門とありました
原戸籍で天保までわかるんですか?財産相続の件で私も原戸籍調べました。確かに明治の前の江戸時代の人がの祖先がいました、名前だけですがどこに住んでいたかもわかりました、
葛尾(かつろう)村の柏原に住んでいたようです、それから小出谷に移り住んだようです
でも天保まではわかりません、武士だったから由緒ある家柄だからわかったのでしょう
自分も郷土史研究していても個々の家の系譜など詳しくありません、
実際は郷土史研究となると個々の家に歴史があるからそこもテ-マになるんですが
フライバシ-にふれるし地元ではあからさまにできないということがあります
そこまで自分の先祖を知りたい、調べたいという熱意があるということは歴史に興味を持つことなんです、だから郷土史は自分の家のことからはじまる、祖父母の話を聞くことが一番身近な郷土史なんだと書いてきました
相馬郷土史研究の一環として先祖調べがあるのでしょうか個々の先祖を全部知るわけにはいきません
函館にも相馬藩から移住した人がいた。その子孫だったんですね
函館にはずいぶん何度も行ったから親しい場所です、でも相馬藩の人がいるなど考えませんでした、何かわかったら書きますが資料は図書館とかの資料にあると思いますが・・・・
結構調べるのに手間であり今忙しいのでできなくなっている
インタ-ネットは便利でもそうした詳細になるとわかりにくくなりますね・・・・
以前に記しました、他に祖父の妻(私の祖母)の氏名が井戸川家から嫁に来たと有りました、戸籍の一覧に士族・井戸川〜家よりとありました、他の戸籍を見ますと、士族等が記されるべきヶ所が空欄になっておりました?その他の親族の妻に青田氏というのも見つかりました、自分で家系図のようなものを作成しながら進めております、大分面白くなって来ましたと同時に益々先祖に対する思いが強くなりました。
色々と有難うございました。
本当に心配です、安否確認でお名前を入力しましても確認できません。
何かお手伝い出来る事はないのでしょうか?
(私は建築工事現場監督38年です、又設計も出来ますが、大工さんではないので直接釘を打ったりは出来ませんが。まずは安否第一〜その後は如何に生きていくかです、微力であり僅かではありますが何かお手伝い出来ることがあると思います。
なんでも結構ですご連絡ください。
現在私は「底倉之記」という書物を読んでいまして、関連資料を探すうちに、こちらに辿り着きました。
そもそもは伊達行朝について調べています。
ご存知かもしれませんが「底倉之記」は、南朝びいきの軍記系読み物で、詳細不明の書です。成立は江戸初期。内容は「箱根の底倉で新田氏の最後の生き残りが全滅の前に書き残した、奥州での戦いの模様」といった感じです。人名は間違いだらけ、年代もめちゃくちゃ、場所の名前もおかしいという変な書物です。
南朝武将として新田勢のなかに世良田の名前があるためか、徳川実紀の編纂の折には参考図書に入れられちゃってますが。
「底倉之記」の中に「高志山で相馬を滅ぼした」的な記述があります。読んでいると、これって小高のこと?と思います。年代が違うので、別の話かもしれません。
その高志山の合戦の話には、伊達の配下に「片倉小三郎行綱」という人物が出てきて、大活躍します。
片倉小三郎という人物は、他のところで見たことのない名前ですし、終始、行綱ではなく片倉小三郎で記される上に、活躍の仕方もなんだか「コレって戦国時代の片倉小十郎景綱?」という感じです。なので自動的に架空人物扱いをしていたのですが、こちらの記事を読んでびっくりしました。
片倉家に関しては、初代小十郎以前はほとんど不明のようですが、探せば何か出てくるのかもしれません。
南北朝時代の奥州って、まだまだ謎がいっぱいですね。
片倉村の由来はどこにあるのか?
片倉村に片倉を祀った社がありそれが気にかかっていました
こ片倉村の由来はぎうなっているのか?
片倉という人物名からしか考えられない
でも片倉は結構ある地名なんですよ
人物名が村の名前になるというのはめずらしいというよりそういうのは本当にまれでしょう
ここに紹介された本など全くわかりません
片倉村の由来とどうつながってゆくのか
それが相馬郷土史のテ-マの一つとしてあることは確かです
片倉の名前が全国にある理由は、簡単です。
諏訪明神「健御名方命」の御子神に「片倉辺命」がいるからです。読みも、そのまんまカタクラベノミコトです。
でも、それが奥州にあると深読みしたくなるというわけでして・・・・・・。重ね重ねスミマセン。
諏訪明神「健御名方命」の御子神に「片倉辺命」がいるからです。読みも、そのまんまカタクラベノミコトです
・・・・・・・・・・・・・・・・
ここが起源でしたか、片倉氏もここを起源としている、南相馬市の片倉村の神社も諏訪明神「健御名方命」に由来した社だった
諏訪神社系統は相馬にもあります
おそらくその神をもってきた人が住んで
そこが片倉村になったのでしょうか
伊達氏の片倉氏とは別なものでしょう
ただ片倉という地名が全国でも多い
それは片倉辺命に由来しているのでしょう
貴重な情報ありがとうございました
・・・・・・・・・・・・・
過剰奉行⇒勘定奉行ですか?
家系図だけで子孫と認められるものでしょうか?
野馬追いは由緒が明確でないと出れないです
歴史遺産の正確な保存を目的とした祭りです
だから誰でも出れることはないです
ただこの辺は震災で混乱状態がつづいています
若い人も流出していて働き手が不足しています
祭りの継承者を失うことはこれもかなり重大なことかもしれません
この辺では何とか野馬追いだけは今までのように継続したいということがあります
それが復興に通じるからでしょう
系図だけから野馬追いの継承者になれのかどうかわかりませんが歓迎はされるでしょう
ただ自分は野馬追いの委員でもないです
そういうことに何か言うこともできません
だから会っても何もできませんよ
ただこの辺で若い人が流出しているので
そういう方面でボランティアでも歓迎されるし
ここに住みたいという若い人は歓迎されるでしょう
ただその受け皿となるのは自分ではないです
野馬追い委員会の方です
たボランティアでもここで住みたいという
若い人は40くらいでも歓迎されるでしょう
野馬追いも継承者を失うということは
高齢化などであるかもしれません
祭りの継承者がいなくなることは
その土地の文化も失うということになるから
結構深刻でしょう
そういうことは他の被災地でもある
若い人がいないと地域を建て直せないという
問題がでていることは確かです
貴殿のホームページを拝見したのは、諏訪大社で片倉辺命を検索していた時です。不思議な御縁を感じています。片倉村を訪ねてみたいと思っています。
大阪府高槻市樫田杉生の旧和田村(かつては京都府 明治初期まであった地名)から、都の戦乱を嫌い、富山県礪波市上和田に移住し、江戸時代の真宗移民で相馬藩領内に移住して代を繋いでいます。母は、白石片倉家10代景貞の末裔です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大阪府高槻市樫田杉生の旧和田村→富山県礪波市上和田→富山県礪波市上和田→
真宗移民で相馬藩領内に移住
母は、白石片倉家10代景貞の末裔です
コメントありがとうございます
深野に真宗移民として来た、その前に大阪府の高槻市から来た
それも旧和田村から都の戦乱を逃れて富山県礪波市上和田に移住した
ここに和田村と上和田村とあるのも不思議である
何か関係あるのでしょうか?
もう一つ母が白石片倉家の末裔だということも伊達家との婚姻を結んだということも興味あります、戦国時代が終わり伊達家の交流が相馬では信仰の面でもあったようです
片倉村がありますがそこがこの片倉氏と関係したと思っていたのですがそうではなかった神に由来していたものらしいです
わからないのはなぜ戦乱を逃れたということなのか?
そういう言い伝えが残っていたのですか?
ずいぶん古い話になりますから・・・・
深野は大原より古い場所です、それで小池から深野に出る裏山に墓地がありその墓地を見ると古いものが多い、真宗系の墓もあるでしょう
真宗系は天明以後でありその前の時代の墓もあったみたいです
深野はフコウノというときこういうのは他でもそうであり大阪辺りから伝えられてそうなった
なぜなら普通は深野だったらフカノとなりフコウノとは言わないからです
だから元をたどると日本ではどうしても大阪と京都とか西の方面から伝えられたものが多い、だから大阪から富山県礪波市に移住してそれからまた相馬藩に移住してきた
ただ大阪で戦乱がありそれが嫌で移住したとあるがでは富山県礪波市からなぜ移住したのだろうとなる
たいがい越中でも富山でも生活が苦しいということがありあえて相馬藩に移住したということがある
ともかくこうして古い家は一つの歴史を語る、どこの家でも歴史があるがここまでわかっているとなると特にそうなる
深野に住んでいる人を知ってます、ただその人は古い家柄ではなく東京の方から来た人らしい、夫婦のどちらかが深野にもともと住んでいてその娘だった
ただ真宗系統でもそれだけ古いというのは驚きです
歴史的に見ると真宗系統は相馬藩内で新しいとも見るのですがその歴史をだとると古いものがあるということです、なかなかそこまで先祖をたどることはむずかしいでしょう
コメントありがとうございます
先祖のことで以前より前の事を調べていましたら、私の祖先、佐藤庄左エ門家というのは12代藩主、相馬充胤公が、総領の盛胤公の250回忌を行った時に盛胤公時代の時に武功のあったもの、戦死したもの等に褒美?を云々との記述がインターネットで出ていました。その中に佐藤庄左エ門家を名乗ることを許すと記述が出ており盛胤公時代のご先祖の名前まで出ており、佐藤丹波信綱と有りました。詳しい年は判りませんが一時期黒木城城代だった様です。
佐藤庄左エ門家の江戸時代最後の跡継(天保3年生れ)が佐藤重房ですが、原戸籍を詳しく見ますと青田家から養子とありました。それから百数十年後の佐藤家に井戸川家から私の祖父に嫁いで来たのが井戸川・・と。やっぱり江戸時代が判りません?元々の祖先が青田家であるのは間違いないようです。黒木城代の名前にも青田家(相馬四天王の一人、歴史書にも記述があります)がでてきます。一時期反乱を起こし伊達家側に付いたそうです。謀反ですよね!
その後反乱を起こした青田の嫡男が戦に秀でており少数の兵で多勢の敵を何度も破っており勇将として周りから恐れられ認められていたようです。これも歴史書に記述が有ります。後に盛胤公に認められ帰還を許されたとありましたがその後青田家は小さな石高で分解(20石とか25石とかに)されております(大きな力を持ったままでは云々ですよね!)。
青田家の祖先の系図をみますと、千葉一族も関係しているようです。平常長〜粟飯原家と続き、粟飯原の三代の孫が所領として頂いた土地に因んで青田と名乗ったと有りました。その後。やっぱりその後(江戸時代)が判りません。残念です。
因みに私が原戸籍を頂きに行ったのはいまから32〜33年位前です。
仙台駅から原町駅まで行きそこから歩いていける所に原町市役所が有りました、とても親切な方が遡れるまでやってみましょうと言って下さったのが天保3年生まれの佐藤重房と、、震災後当時の会社が復旧工事で宮城迄行ったのですが原発の関係で原町市は未だ行かない方が良いと言われ行くのを断念しました。ご先祖様の墓所も有りと聞いて居りますので是非とも行きたいと考えています(墓所の隣に祖父が写った写真が一枚あります。宗派は真言宗と聞いております。長々と私事申し訳有りません。(私は27,8歳時まで本籍は福島県原町市牛来字大塚・・・でしたが色々な国家試験を受ける時に毎回返信封筒を入れた書簡でお願いし戸籍謄本を送って頂いて居りましたが、子供の事でも本籍が必要な事が増え、現在は本籍を函館にしました。私は函館生まれで有ります。
元気なうちに祖先の地をもう一度訪れるつもりです。
昨年の暮れに南相馬市のホームページに我家の家系と野馬追に参加する資格とはと書いてみました。すると
南相馬市の博物館の方が盛胤代の佐藤丹波信綱〜子孫に佐藤庄左エ門が何代かに渡ってありました。その後佐藤宗左衛門へ家名変更し石高200石
白地に黒猪の旗印が判りました(画像を送って下さいました)。
他に色々調べて下さり、間違いなく城下に住む家臣団であると、勿論城下に住む家臣団ですので野馬追に出る資格は有りますと。昔の武士団は野馬追を戦闘訓練として行っていたので先ず間違いなく野馬追に参加していたでしょうと。
叔父(亡)が一度原町市に行き昔の家屋がそのまま有り親戚の方が住んでいたそうです。叔父はかなり大きく成る迄そこに住んでいたので部屋のどこに鎧や刀が有ったのを知って居り、持っていかないから一度だけ見せて欲しいと頼んだそうですが、そんなものは無いと突っぱねられて見る事が出来なかったそうです。
私の父は原町市から出征しています。(父は戦争の話を一切しませんので父の死後叔父から職業軍人と聞かされました)位は判りません。そういえば我が家に日本刀をサーベルの様にぶら下げた父の写真が一枚だけ見たことがあります。私が動けるうちにもう一度原町区に行ってみたいと思っております。お墓も見つかると良いのですが。「真言宗」です。