2009年04月27日

日立木村(正一位館腰宮の碑の謎)

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名取(館腰神社)
http://www.city.natori.miyagi.jp/soshiki/bunka/tatekositemple/index.html

竹駒神社の案内標識があるので、街道を離れて行ってみる。日本三大稲荷の一つで、社伝では、承和9年(842年)、小野篁(たかむら)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝える。
竹駒神社は相馬でもお参りして分霊されている。稲荷神は豊作を願う神である。農民が豊作のため祈った神である。竹駒神社は有名だが館腰神社というのは有名ではない、でも名取に館腰神社があり館腰駅があることは知っている。ここは日立木村の高松であり稲荷も館腰神社から分霊されたのだ。正一位とは位の高い稲荷神ということでもとは京都からの稲荷神の分霊である。神様にも位があり位が高くないとありがたみがないとなる。嘉永だから江戸後期である。
館腰駅はいつも仙台に行くとき駅名の方が親しく覚える。神社の名前を駅名にしていた。太子堂駅も祠だからそうである。ただ館腰とここに館腰宮などと石碑で残っていたから江戸時代から信仰を通じて名取とつながっていたのかと改めて歴史を再認識した。伊達と相馬はいろいろつながりがある。新地村では伊達の境で明治まで伊達と相馬でわだかまりがあったとか、江戸時代の継続としてやはり昔は藩が違いば相当な民情の差があった。それでなかなか藩意識から解放されなかったから当然だった。


南相馬市小高区大田和字館腰
南相馬市原町区中太田字館腰
福島県伊達郡月舘町大字月舘館越

館を越した所”が、館越の地名の由来と云う。
義経が最初に住んだ館を引越したところが「館越」、そして館をつくり定住したところが「高舘」という具合に、義経ゆかりの地名がとまた、この台地の付け根付近に中世の館跡が残っています。


これが、地名「立ノ越」(館ノ越)の由来と考えられます。
館がありそこが目印となるからこの地名がついたことは確かだろう。
高倉山の城跡は城氏神として勧請した竹駒稲荷が祀られ、折木川に面する南面は断崖絶壁で、西側が深い沢となっています。麓から遊歩道が整備されており、山頂には四方を見渡せる展望台があります 。

広野町
http://www.town.hirono.fukushima.jp/sightseeing/historical.html

武隈たけくまの松 : 宮城県岩沼市にある竹駒神社の別当寺であった竹駒寺の後にあったと言われている松の木。(前項「笠島」の曾良日記参照)
竹駒寺は能因法師の開基になる寺である。寺の縁起に、 能因法師がみちのくを行脚し竹駒神社で歌の道に励んだときに使用した庵が竹駒寺になったと伝えられている。

武隈は竹駒が変化したものだろう。もともと竹駒寺にあったのだからそうなる。
富岡宿
通りがかりのおばさんに「竹駒稲荷神社とか太田農神社は、どこにありますか。」と聞いた。「さあ。」「この付近に神社はありませんか。」「お稲荷さんならそこの左手を入って行くとありますけど。」ということで、左手に入って行くと、「下町三社の杜」がある。太田農神社・八幡神社、竹駒稲荷神社、事代主神社が、左からこの順で並んでいる。
太田農神社は南相馬の原町区の太田神社から遷されたものだろう。神社は各地に遷される。富岡は相馬藩との境だったからこの辺まで遷されても不思議ではない。

稲荷神の総本社である伏見稲荷大社が正一位であることから、そこから勧請を受けた全国の稲荷神社も正一位を名乗っており、「正一位」は稲荷神の異称のようになっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/正一位

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寺内に真野明神があるからこれはここの稲荷と関係ない、稲荷は竹駒と関係していた。竹駒から分霊されたのが多いのだ。現実に竹駒神社まで農民でもお参りに行っている人はいた。山神は小牛田でありこれも美里ととかありふれた名前にしたから歴史的にわかりにくくなったのだ。
 
posted by 老鶯 at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代
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