2009年05月01日

八重桜と松(相馬市まで)

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いづこより尾長来るや八重桜


山鳩の胸に触れにき草萌ゆる

タンポポの増えて明るし雀かな

白藤に陽の落ちゆくや墓所の道

八重桜散りてひそけく土手の道相馬の午後の静なるかな

街道に残れる松と八重桜この道親し争いもなく

今日は相馬市の歯医者で歯周病にならないための歯の掃除だった。歯の掃除は定期的に歯医者でしてもらった方が良かった。歯ブラシだけではできないだろう。歯医者に行きやすいがそのほかの病気はむずかしい、老人の病気などもむずかしい、慢性疾患になるとまたむずかしい。歯は機械の部品のように見て治療できる。だから歯医者にはかかりやすい、歯をかぶせるとかはやはり技術がいるのだろう。あそこで歯をかぶせたのは20年くらいなんともない、手入れもしていないのに壊れていなかった。ただあそこも入れ歯はうまくいかなかった。入れ歯はどこでもうまくいかないのだ。総入れ歯になると余計そうである。歯医者でも金はかかっている。すでに20万くらいになっている感じだ。10倍とられていたらそうなる。医者とは歯医者でもこれくらいかかるのである。だから保険料が高いとはならないのだ。そうし老人は歯であれ何であれどこか痛んでくるのだ。それで医者にかかる率が若い人よりはるかにに高くなるのだ。保険料のほとんどは老人に使われているから老人にそんなに金を使うなというのもわかる。昔だったら歯の治療などしないから老人になったら歯もぼろぼろなっていたろう。それでも木の入れ歯が江戸時代にあったからなんとかしようと努力はしていたのである。医療でも人間は格段の進歩をした。それで高齢化社会になったがいろいろ問題が生まれるのもそのためである。

松と八重桜はあっている。松は誠実で信頼を示して八重桜はあたたかい女性である。
松はやはり男性である。この松は街道があったときからここにあった。松としてはいい松である。松はやはり日本を象徴する樹なのである。松並木とか松は身近であり人間と同一化される、擬人化されやすい樹なのである。最近家でごたごたあって疲れた。この松と八重桜とはあまりにもかけ離れている醜さを露骨に見たのでショックである。この八重桜と松は天国的な世界であり人間に見たの地獄だった。全くの信頼も何もない、暗黒であり断絶だった。この世には地獄と天国が併存しているのだ。何気なくみている当たり前の自然の光景が実際は天国的光景なのである。人間界は全くその逆となっていることが普通にあるだ。和合しないのが人間ではないか、だから戦争も絶えることがないのだ。戦争だけではない家族でも和合しているが少ない、親戚関係になるとさらにそうである。人間同士では和合することは家族にすらないのが多いのである。

今日は朝尾長を見た。尾長はあまり見かけない、一体どこにいるのかと思う、山鳩はよく見かける。相馬の特徴はやはり街中に高い建物がないことが影響している。しんみりとするのはそのためである。もし高いビルが一つでもあったらそうはならない、人間は街の景観でも意外と心に影響するのだ。高いビルがある大都会は心も殺伐としてくるのだ。戦前は高い建物がビルはほとんどないから心も落ち着いた感じになっていた。ただすべてがいいとはならない、道路などは埃りで汚い、舗装の方がいい、ただ街の景観も心に影響する、だから京都の町屋の家並みの後ろ高層のマンションなどができていたのは幻滅した。見上げるようなビルだったからだ。ただ京都では高層ビルが比較的少ないからまだ昔の景観が保持されているから昔を偲ぶことができる。京都タワ-などは景観とマッチしない、五重の塔はマッチする。ともかく日本はヨ-ロッパのように石の建物のように長持ちする景観を作れない、だから街は雑然として醜いものとなる。
町中の墓所の道に白藤が咲いた。前にも同じ句作ったみたいだ。今日も暑かった。藤の季節になってゆく、・・・・
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