井戸の話(沢庵和尚の春雨庵から・・・)
寛永六年、紫衣事件に連座して徳川幕府によって京都大徳寺を追はれた沢庵禅師は、出羽国に配流の身となった。山里の春雨庵と名づけた庵で、茶や歌に親しみつつひっそりと暮らした。この庵に山乃井といふ井戸があり、マサといふ名の里の娘がよく水汲みに来た。時折り娘が届けてくれる里の花や、彼岸のときのおはぎや、また村里の話題は、老僧のなぐさめであった。
海に近い五島町一帯などは 塩水で特に水質が悪く、山手の井戸からもらい水をしていたので「五島町の水乞食」とまで いわれた。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/character/kurata/kurata.html。
朝顔に(や) つるべとられて もらい水 千代女
名所旧蹟を訪れるときはこうしたちょっとした話が大事である。そこからイメ-ジをふくらませる作業が必要になってくる。あまり井戸に水もらいにきた娘のことに注目する人は少ないだろう。でもそこに一つの物語があり昔を偲ぶことができる。昔を偲ぶということはそれなりに努力が必要なのである。漠然としても浮かんでこない、想像力が必要になる。ここを訪れたのは実に三〇年前以上だろう。でも覚えていて今思い出し書いている不思議がある。この時は冬であり雪だった。
竹に雪沢庵和尚の庵の跡
今思い出して一句作ったのである。
「堀兼=ほりかね」とは, 井戸を掘るのに困難を極めたため「掘りかねる」の意味でつけられた, と言われているそうです。
http://hamad.web.infoseek.co.jp/0311/maimaizu-com.html
「神田の水で産湯を使い…」「玉川の水で産湯を使い…」とは江戸っ子が啖呵(たんか)をきるときの決まり文句。 実は「神田の水」というのは、神田上水の水ということ。同じく玉川の水は、玉川上水。現在、JRに水道橋という駅がありますが、この「道」が、まさしく、その上水道です。江戸っ子は、川の水や井戸の水などではなく、水道水を使っていることを自慢しているわけで、そうした近代設備のない田舎者を見くだす文句として、この言葉を使ったのです。
http://www.norenkai.net/shinise/jien/main04sa.html
水売り
http://www.cleanup.co.jp/life/edo/05.shtml
下町一帯の神田上水、多摩川上水、千川上水も、みな土中の伏樋を堀り捨てて鉄管にしてからは神田児(かんだっこ)の産湯の水もなくなったわけで江戸っ子と移住人との限界の崩れてきたのも上水によって暗示されているのはおもしろい、(折口信夫)
もともと水はその土地土地で違っていた。それが水道管から流せば一様になる。みんな同じ水を飲むようになる。印半纏なども地域によって違った模様だったが明治以降制服になり一様化した。江戸時代の方がみんな土地に根ざしているから多様だった。文明は交通の発達で一様化規格化されることなのだ。とにかく水は生活の要であり水なくして一日ははじまらない、だから文明自体、川の側とか水の辺り、一番水の利用しやすい所に生まれたのである。
「白井宿」という呼称だが、厳密な意味での宿場町ではない。
古文書には「白衣」の記述も見られるが(この地の領主の奥方が白い衣をまとっていたこと
に由来するとか)、井戸への羨望から「井」の字を当てるようになったという。
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