2009年05月21日

相馬の大手高麗門は滴水瓦

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滴水瓦が日本に普及するのは16世紀末で、文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)に従軍した武将が帰国後に城郭建築に使い始めた。これは異国趣味がブームとなった桃山時代の気風を反映しており、それ以前の日本建築にはこのような異国的な瓦は受容されていない。高麗瓦とも呼ばれている
瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。


 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。

相馬藩の大手門は大手高麗門と呼ばれているのは朝鮮からもたらされた滴水瓦が使われていたからである。それは伊達政宗は朝鮮出兵で秀吉につき渡ったときもたらされた技術である。文禄・慶長の役では相馬藩は別に出兵していない、伊達藩は大藩だから出兵した。つまり伊達藩の影響で相馬藩にも滴水瓦がもたらされた。瓦を作る技術者が伊達藩から相馬藩へ来たのか、大手高麗門と呼ぶのはそのためである。文禄・慶長の役で朝鮮から陶工が連れられて窯を開いた。その子孫がまだ綿々と技術を伝えていることは知られている。でも瓦はあまり注目していないが瓦も陶器を作ることと同じ技術なのである。だから陶器と瓦は本来一体の技術として古来あったのである。この瓦に注目する人は少ないだろう。でも大手高麗門と呼んだとき当時は最新の技術で作ったということで誇らしく名前をつけたのである。相馬藩は伊達藩と争ったがその後様々な影響も受けたしいろいろ交流があったのである。
posted by 老鶯 at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代
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