2009年08月18日

死者が靖(やす)らかであること(靖国神社の意味)

 


祀られて安らけきかなまた祈る我が家の支えとなりし人かも

 

介護から死からお盆からと人間は死んだからといって終わらない、でも介護のときも認知症になっても十分ではないにしろ介護した。それでいつもこの家には尽くしたと言っていたしそれは本当だから満足しているだろう。死んでもやはり祀りたてている。人間はやはり生前の所業の継続として死後もある。実の親であれなんであれ生前の所業が悪ければ死後もお祭りして敬うことはない、いくら日本人が特別死んだ人はみなカミになるとか敬うというがそういうことはないのだ。ただ安らかに死なない人はいる、事故で死んだり非業の死を遂げたり恨みを残して死んだ人がいる。身近にもいた、その人は親が悪いとばかり思っていたがそうではなかった。その親は子供に恨みを残して死んでいった。そのとばっちりが自分の家にきた。なぜこんなにその親の子供を恨むようになったか、最後にその親が電話かけてきたのだ。「ひどい子供だ、娘だ・・・」それをたいしたことではないと思っていた。それがなぜ今自分の家で同じ様なことを言っているのか、「あれほどひどい女はいない・・・」とその親の恨みが自分の家にのりうつったとしか言いようがないのだ。こういう恨みを残した身内の霊は安らかではない、だからその人を祀っても霊は安らかではない、祈るにしてもそういう仕打ちを人したが心から祈れる気分にはなれないのではないか?そういう人は親についても祖母についてもその子供に語らないだろう。もちろん良くは語らないし生前もそれを見ていたから敬い心から祈るということはありえない、人間は死んだから死んだ人のことなど関係ないというがやはり生前から死後も継続があるのだ。生前に愛情をもっていないものが死後も愛情をもつのもむずかしいからだ。

これを靖国神社問題にあてはめると共通している面があった。

 

祀られて安らけきかなまた祈る我が家の支えとなりし人かも

祀られて安らけきかなまた祈る我が国の支えとなりし人かも

家→国であり同じ問題がそこにあった。以前としてこのような祀り→祭りができないところに問題がある。本当に国に尽くした人たちなのかということが全国民で納得しないからそうなる。家族という小単位では全員が死んだ人は敬われているから安らかだとなる。いづれにしろ人間は死んで終わりではない、生前の継続がありそれが歴史でもあるのだ。家でも親の遺徳を受け継ぐことがある。国でも同じである、国に尽くした人たちがいて今日の日本の繁栄もある。ただ歴史となると評価が分かれるからむずかしい。「オレは・・・家のために尽くしたのにな・・・・こんな仕打ちされるとは・・・」とか恨みになると困るのだ。「オレタチは日本国のために尽くしたのにな・・・死してまで尽くしたのにな・・・・なぜ国民は敬わないのか、無駄死にだったというのか・・・悲しい、悔しい、恨めしい・・・」となると問題になる。霊は安らかでない、・・・靖国神社とは霊を靖(やす)らかにさせる神社だったのである。だからといって英霊として祀ることはどうしても国民一致のものとしての祀りとはならない、ここに霊が安らかにならない、不幸があったのである。

「国の靖らかなること」を感謝するために靖國神社を参拝するだけである。


それは「国の靖らかなることを感謝する祈り」に繋がっているはずであると・・・・

靖国神社は皮肉なことに一番靖らかではないことになっている。国論を二分する場所になっている。靖らかになりえない場所なのが皮肉なのである。

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