2009年10月06日

南相馬市栃窪村十首(秋から冬) ( 栃窪村の今昔)


南相馬市栃窪村十首(秋から冬) ( 栃窪村の今昔)


春なれど北風寒し栃窪の町より遠し車なければ

栃窪の奥に墓地あり秋の朝静に蝉の鳴く声ひびく

栃窪へ車なければ遠しかな粗末な墓に虫の鳴くかな

栃窪に見るべきものの何かあれ古き碑並べ秋の日暮れぬ

栃窪に古き碑並びあわれかな柳は枯れぬ人も老ゆかな

栃窪に我が知る人も死ににけりともに働きしは役場なるかな

役場という名もなつかしき今はなし南相馬市と変わりけるかな

草枯れて昔の道のその跡に古き碑残る栃窪村かな

真野川を上り栃窪大倉へさらに遠き佐須は淋しも

冬の日に木の葉一枚散りにけりその静けさや人知らぬかも


栃窪で一番古いのは冠嶺(さかみね)神社である。御山神社は葉山信仰だから江戸時代のものだろう。 冠嶺(さかみね)神社は日本武尊(ヤマトタケル)の奥州蝦夷征服の伝説に由来するから古い。その前に浮田国造(くにのみやっこ)が最初に記されているしそこに隣接しているのだから古い地域である。栃窪の特徴は「古碑の村」になっている。御山の入り口に碑があるのが象徴的である。その碑はいつもひっそりと草に埋もれている。その碑には藁に詰められたご飯などが捧げられていた。それから上栃窪の方に上ると道に沿い古い碑が並べられてある。あれはあそこに集めて並べたものであり今ではどこにあったのか良くわからない。古い碑などを一カ所に並べることが結構ある。古い墓を無縁化した墓を一カ所に集めるのとにている。でもどこの場所にあったかわからなくなるのは歴史の保存としてはよくない、場所が大事でありその場所にあって活きるものがあからだ。今でも畑の中に古い碑が並んでいるがそこはかつて道だったのである。いつしか道の役目がなくなり碑だけがここが道だったことを示しているのだ。

郷土史研究の基礎は村の新旧を知ることである。八沢浦とかはじめて来る人は古い村と思うかもしれない、上萱などは山の上に孤立してあるし塩の道沿いにあるから古いと思うかもしれないがあれは戦後開拓に入って作られた村だから新しいのである。遠くから来た人は明らかに古い村と錯覚するだろう。外から来た人にはどこがその市町村で古い場所かわかりにくい、城などがあれば目印になりわかりやいのだが何もないとわかりにくいのだ。神社の由来も新旧の目安となる。冠嶺(さかみね)神社の由来を知れば古いとわかる。浮田が鹿島区で一番早く開けた地域である。その次に栃窪も古いのである。栃窪の特徴はやはり「古碑の村」である。金比羅の碑が多いからここから金比羅参りに行き箸蔵寺への道標に奥州栃窪村の人が寄進したとしるからだ。そして鹿島区では実際に栃窪村に一番金比羅の碑が多いのである。記録としても金比羅参りした人のものが残っている。

役場(ヤクバ)というときこの言葉は死後になっていないが今は南相馬市の支所であり鹿島町であったときの役場という感覚とはかなり違っている。役場とは死語になっていなくてもここではすでになっている。役場とみんなが呼んでいたときそこは町のコミニュティの中心としての役割をになうものとしてあったのだ。姉が保健婦として役場に勤めていたし知人も役場に勤めていたし役場に勤めている人が田舎では多い、役場で書類などをもらう時嫌な目にあったとか事務の対応で素っ気ないとか悪評もあった。じも役場というのがなくなってみると何かなつかしくなる。


人間はその時感じなくても一旦なくなってしまうとひとしおなつかしくなるのだ。言葉も死語になった言葉が多いがその言葉のなかにはそうした生活の中で生まれた言葉だった。それが生活が変わり喪失したのである。言葉のもっている実感が喪失してしまったのである。

栃窪村も変わる、あそこに常磐高速道路ができてその下のトンネルをくぐって栃窪村に入る感覚は相当今までとは違っている。何か違和感があり素朴な栃窪村も変貌した。入り口に古い碑が草に埋もれてある感覚とは違ってしまった。常磐高速道路ができればかなりまたこの辺も変容する。高速道路の無料化はその変化に拍車をかける。恐れるのは常磐線が消失するのではないかという危惧である。なぜなら高速道路で仙台まで一時間とかなると鉄道を利用しなくなる。車のない人も高速バスを利用するようになる。すでに東京まで高速バスが原町から出ていることでもわかる。高速道路無料化は鉄道に痛手でありJRは政府に抗議しているのもわかる。常磐高速道路の影響も相当に大きい、交通体系を変えてしまうほどに大きいものとなるかもしれない、火力発電所ができたときも大きな変化だった。ここも環境破壊だったがあそこで地元の働き場になっている。一般の人は環境に考慮しない、小高と浪江辺りに原子力発電所できれば景気よくなるとか建築土木関係の業者は言っている。仕事がない不況の昨今、環境より仕事なのである、収入なのである。環境にやさしいのは鉄道のはずだがますます車を使うとなると鳩山首相の環境政策優先など実行できるのか疑問である。

人間は本当にそれぞれ住んでいる土地のことをわかっているかというとき今はわかっていない、時間と距離の感覚があまりにも違ってしまったからだ。車をもっているものともっていないものとのその土地を認識する感覚がかなり違っているのだ。車をもたないものにとって栃窪すら遠い地域になる。これが自転車もない荷車の時代だったらさらにそうである。栃窪は鹿島区では一番遠い場所になるのだ。その遠さの感覚から詩が生まれる。栃窪にも奥があり墓地がありここに秋の蝉の鳴く声がひびいている。栃窪の奥は本当に奥になるのだ。車だとこういう意識は生まれてこない、芭蕉にしても新幹線で平泉に来たなら「奥の細道」は生まれない、つまり車では奥の意識がなくなるのだ。一気に早く到達しすぎるからである。今の時代そんな悠長なことでは生活できないとか言われるのはわかっているがしかし車をもたない生活の方がとてつもなく長い、それが車なしでは生きていけないとまでなった。その変化は政治の変化より余りにも大きいものであり根本的に社会を変えてしまったのである。

栃窪村の金比羅の碑
http://www.musubu.jp/tochikubo.htm


posted by 老鶯 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
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