2009年10月16日

古代より都と密接な関係があった南相馬市鹿島区(真野)


古代より都と密接な関係があった南相馬市鹿島区(真野)


古墳時代-(桜井古墳、真野古墳郡)
古代-(陸奥の真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎)
平安時代-源義家
鎌倉時代-岩松氏
南北朝-霊山炎上-落武者-鹿島区真野へ




みちのくと都、奈良時代は平城宮だったけど次に京都に移ったがすでにその頃から密接な関係があった。それは古墳時代からはじまっていた。桜井古墳は東北地方では三番目に大きいしまた陸奥の真野の草原と明確に地名を奈良の都から言うとき密接な関係が結ばれていた。陸奥は単なる草原なびく荒野の意味ではない、すでに交易のあった、鉄などの資源を求めて都の人々が来ていた土地であり都の人に知られていたのだ。真野の入江があり船着や市庭という地名が塩崎にあり交易の地として都の人に意識化されていたのである。真野の草原とは今までは草原(かやはら)はいかにも荒蕪の地として草原(かやはら)がなびくだけの人跡未踏の地のように思われていた。その逆が草原の意味だった。草原とは地名であり入江がある湊のことだった。そこには何もない草原(かやはら)だけがなびく地ではなかった。都との交易の地でありだからこそ寺内の古墳から金銅双魚佩(ぎょはい)、がこの地の王なるものに授けられたのである。


西行が歌った束稲山もそうである。こんなみちのくの奥地にこんな見事な桜が咲いているのかと歌ったときそれは桜だけではない荘厳な七堂伽藍があり金色堂もあった平泉に驚いたのである。桜だけだったらどこにでも咲いているからだ。このみちのくの真野の草原もそうだったのである。陸奥の真野は一方的であったにしろすでに奈良の都と密接な関係があったからこそこの歌ができたのである。面影にして見ゆというものを・・・というときそこに赴任した大伴家持のことなのか、そんなに遠くに行ってもあなたの面影は忘れませんよという意味なのか、どうしても一度も行ったこともない地を面影に浮かぶとは思えないからだ。一度実際にその地を踏んだらあとで回想することがある。一度行った地は旅した地は面影に浮かびそれで短歌や詩を書いたりしている。しかし一度もその地を踏んでいなかったら面影に浮かぶことがあるだろうか。これは実際はわたしの最愛の人ならどんな遠くに行ってもみちのくの果てなる真野の草原に行ってもその面影が浮かびますよという意味かもしれない、大伴家持がみちのくに来たとは証明されていないからだ。秋田まで大伴家持が行ったということを学者が書いて本も出している。秋田まで行ったらなら真野にも来たとなるが明確には証明できていない。

平安時代は源義家の時代になるがこれも東北のいたるところに伝説が残っているからよほど陸奥の人々にとって印象深い忘れられない人、影響した人だったのである。次に鎌倉時代になると岩松氏が相馬地域の最初の支配者であったのでこれも鎌倉と密接な関係があったのだ。船で来たというとき磐城からにしろやはりその時は確かに船で烏浜に上陸したのだろう。
岩松氏は南相馬市の鹿島区では最初の歴史として具体的な名前記した人なのである。
その次に南北朝時代がありこの時も都と密接な関係がありその全国的動乱の中で霊山が炎上して鹿島区の真野に落ち延びた人が子孫になっている。それは祭りとしても残されている。霊山が陸奥の支配の宮跡となりその時後醍醐天皇の宮跡が吉野山だから吉野山と霊山は深く関係していたのである。吉野山と霊山の物語は南朝の滅びの物語として共通していた。

北畠家は、村上天皇を祖とする村上源氏。
北畠顯家は、後醍醐天皇第七皇子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、
御父・親房と共に多賀城(宮城県多賀城市)に下向。
延元2年(1337)正月8日・国府を霊山に移したが、
翌3年5月、阿部野の戦いで足利軍に破れ、21歳で没した。

明治14年、建武の中興に尽力した功績により、
陸奥国府のあった霊山の地に祀られ、
別格官幣社となった。
神紋は笹竜胆。祭神・北畠家一門の家紋。


 歌書よりも軍書に悲し吉野山(東花坊)-南朝や吉野に霊山秋の暮-吉野と霊山は歴史を深く共有していた。だから吉野に行ったとき霊山を思い霊山に来たとき吉野を思うのである。

みちのくゆ我もたずねて吉野山南朝の跡や月のい出けり

これは奈良の平城宮跡に佇んだときもそうである。陸奥の真野の草原を思うことになる。陸奥が国の歴史として共有しはじめたのは古墳時代からであり次に古代からは地名も明確化されるほど密接な関係が結ばれていたのだ。 陸奥を一地域として辺境の地としてではなく日本の歴史に組み込まれて史実として構成することが一地域の偏狭な孤立した歴史としてではない意味をもってくるのである。それはただ中央の歴史に従属するだけだともなるがでもみちのくだけで一つの歴史観を形成することは無理である。アラハバキ族がいたと言ってもそれは歴史の地層に埋もれてしまって知ることもできないからだ。ただみちのくは縄文時代は東北の方が大きな世界を形成して西より進んでいたというのは本当だろう。東北はその後停滞してしまった。百済とか外国の先進文化をとり入れることができなかったためだろう。

みちのくははるかなれども知られけり真野の草原秋深むかも


この歌は何でもないようだけど草原を萱原のにするのと草原を地名とするのではかなり違うのだ。陸奥の真野の草原はいち早く歌枕化したが全部草原は萱原(かやはら)としている。ということは草原を地名とすればこれらの歌を全部否定することになるからだ。だから結構これは歴史的に大きな問題なのである。草原を萱原とすればこの歌はできない、これまでの真野の草原は萱原(かやはら)として本歌とりをしているからだ。万葉集にはこうして史実的に証明できないものがかなりある。だから間違って解釈しているからその後の展開も変なものになっているのだ。現実に真野の草原はここでも萱原(かやはら)だとして写真にその萱原を出して宣伝がつづいていたのである。地名だとするとそうした詩的イメ-ジの草原-萱原ではなく・・・現実に存在した真野の湊であり実用的なものとしてクロ-ズアップされる。現実に存在した場所-湊のことだとなるからその意味はかなり違ったものとなるのだ。そもそも地名は味気ないものであり詩的なイメ-ジでとらえるべきではない、ただそうした場所があったということが大事なのである。草原が萱原だったら場所ではない、ただ萱がなびいている美しい場所ですよとなり湊として交易があったという現実感、実用としての場の存在は喪失するのである。

 

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