2009年10月23日

晩菊(田舎の労働の価値)


船一艘真近に見えて秋薊

晩菊に日あたり今日は波静か

秋の朝野菊に日あたり沖に船一艘見えて波静なり

漁船が海岸からすぐ近くに一艘見えた。小さな菊の花に朝の日があたっている。最近は秋晴れの日がつづき波も静である。田舎に住んでいると都会と違うのは何か、いろいろな物を日々買って暮らしている。そのモノが金が簡単に手に入る、そのモノを作り出した、モノがどうして与えられるのか見えなくなっているのが現代なのである。流通経路も複雑であり生産している現場もわからない、松川浦から魚売りに来る人は朝6時ころに起きて市場で買い出しするのが大変だという。ところが買う人は買うときしかその売る人に接していないのだ。そうするとその売る人が何で苦労しているかわからない、売りに来るときだけ金を払いば簡単に買えるとなる。
さらに魚は売る人だけではない、とる人もいる。それは今日見ていた漁船がとっている。近海の魚は高いが漁船に乗って魚をとる人がいて魚は買い食べることができるのだ。するとその魚がどうしてとれるのか、食べられるのかを実感として知るには漁船に乗り漁師がどうして魚をとるのか知る必要があるのだ。そこまで知ることはできない、その魚をとる人の苦労があって魚は食べることができるのだ。感謝するとなると魚を売る人があり魚をとる人に感謝することになる。農産物でもこれは同じである。農家がどれだけ苦労して食料を作り出しているかその生産している現場で見たり手伝ったりしないとわかりにくいのだ。でも金があるから買う、買ってやるとか金さえあれば何でも買えるとなっているのが現実である。バナナなどになると地球の裏側からでも来るからさらにわかりにくい、バナナの暑さのなかでとるのが大変な労働だったという日本の若者が言っていた。バナナなんかいつもあるし安いものじゃないか、バナナなんか簡単にいつも手に入るじゃないかとなる。近海でとれる魚はそれなりの価格だからとれればもうかる。

 

でも人間はつくづく労働というのが実感としてわからない世界に住んでいるのだ。屋根を直してもらった職人が梯子をかけて上ったときは見ただけでくらくらした。そこをすいすいと上ってゆく、命懸けだというのが口癖である。確かにそうだから鳶職は賃金が高いとなることが実感としてわかる。一歩誤ったら落ちて死ぬからだ。モノの価値が労働がどういうものなのか知りたかったら労働している人についてあるくとわかる。魚を売る人だったら魚を市場で買うときからついてゆけばわかるのだ。職人の仕事を知りたかったらその職人に一日ついて補助役をやればわかる。ただ魚を売る人についていっても魚をとる現場まで漁船にのりついてゆくことになるからその過程を全部をたどることは大変なことになる。でもそこまでしないとそのモノの価値を実感することはできない、田舎で働いている人は比較的こうしてその労働が見えることがありうる、第一次産業の農業とか林業や漁業も見えやすい、建築土木も見えやすい、工業は見えにくい、ただ部品だけを製造しているところが多いからだ。
ともかく田舎の労働とは何なのか家のリホ-ムやらで具体的に考える、田舎で生きることは都会と生きるとは違う、労働でも田舎の労働と都会の労働は違っているのだ。田舎は社会が見えやすい、それで生きにくいという人もでてくる。労働しない自分が言う資格があるのかとなるがやはり労働の意味を考える人も必要なのである。

晩菊の時期だけど俳句だったら晩菊となるが短歌に季語を入れるのは良くない、晩菊でも作れたが短歌では季語をそのつま入れるのは良くないので晩菊を入れた短歌は作らなかった。

 

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