2009年10月28日

秋薊(故郷の風景)

akiazamichi1212.jpg


秋の薔薇十輪ほどや田舎駅


いつも行く砂利の畦道秋薊

我が庭の塀にとまりて蝶一つ静かなるかな秋の朝なり

俳句は何度も言うが写生である。秋の薔薇は十輪咲いている。ただそれだけでも写生である。だから「鶏頭の十四五輪のありぬべし」のように十四五輪に子規はこだわったのである。そして現代はデジカメは欠かせない、写真そのものが写生の道具になったのが現代なのである。
デジカメでは人間の目に見えないものが見えてくる。今回の故郷のいつも行く何でもない道をただ無闇に無計画にとってまた選んだ。こんなふうにとれているのかと感心する。改めて平凡な風景を見直すのである。だから別に写真の才能がなくてもいいのだ。デジカメならとにかくただ何枚かまずとってみることである。そのあとでいいものを選ぶのがデジカメなのである。
ここも舗装されたりしていたら情緒がなくなっている。今や畦道まで舗装されているから情緒がなくなる。この道は舗装されていないから水たまりができたりもする、自然なものには情緒が生まれる。


最近遠くに行かない、それでも近くの毎日接する風景でも絵になるものがある。人間は身近なものに特別なものを感じない、でも写真にとって良く見たら何か違ったものを感じたのは不思議である。この写真を見るとき、自分が毎日通っている道だということを見る人も知ってもらいたいとなる。こんな道を毎日通っているのだなとイメ-ジされれば何かまた生活の道として他者も意識される。おそらく他の人も写真俳句を出している人が多い、でもそれが何か今一つ身近に感じられないのは想像力が不足しているからだろう。それより本人が何かを発見していないのだ。自分でとった写真を見てはじめてこの道が自分が毎日行く道として実感して秋薊の情緒を発見したのである。
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