2009年10月30日

秋霞(故郷の風景)

akikasumi123.jpg


みちのくのとある町なり秋霞

船見えず波打つひびき秋薊

野は枯れて里見守りぬ烏二羽

野は枯れてなお道の辺に月見草咲きしもあわれ月のいずるも

 

秋霞というとこれもぴんとこないしあまり使わない、でも確かに山脈が霞んでいる、はっきり見えない、やはり秋霞なのだろう。秋霞となるとみちのくにふさわしいのか?浜通りは海と山がある。ただ高い山がないので風景をひきしめるものがないのだ。海も瀬戸内海などとは違う、船が全く見えない時もある荒寥とした感じの海なのである。

 

月見草がまだ結構咲いている。月見草は長く咲いている花である。今年はまだ温暖なのか?おりしも夕方になり月が出ていた。待宵草とするのと月見草とするのとは感じが違っている。名前によって人間は左右される。名前からイメ-ジするのが人間なのである。

自分ながらなぜこんなに俳句でも短歌でも書いているのが不思議である。若いときは確かに俳句短歌でも書いていたがこんなふうに軽く毎日のようには作っていないしたいしていいものがなかった。まあ、晩年になりやはりいいものができてきているのだろう。晩年はやはり仕事の総まとめになる。どんな平凡な人でも今まで積み重ねてきた経験してきたものをまとめる時期である。ただこれも時間がかかる、家事だけでも追われると何か落ち着かなくなるし介護する人をかかえたらそういう余裕もなくなる。結局プログをつづけることができたのは確かに俳句短歌は第二芸術だとか短いからできたのである。俳句短歌はプログ向きだったのである。長い文章になるとこんなにはつづけられない、プログがあったからこれだけ作り続けることができたのである。

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