2009年11月01日

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?



●米沢藩が玉野村にかかわった由来

相馬市の玉野村は米沢藩と伊達藩と相馬藩の三つ巴の境界争いで有名である。
ここに相馬と伊達の境の桜がある。

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に  相馬二編返し


天文の大乱の際、伊達稙宗の娘婿、相馬顕胤は稙宗の側につき、度々晴宗と合戦に及びました。それ以降は伊達氏と争うことが多くなり、天正十八年(1590)までの五十年間に三十数回もの合戦がありました。桜は、伊達と相馬の境界を定めた桜として植えられたもので、もともとは相馬街道(川俣町と飯館村)の境界、水境神社にあったものです。

川俣の方にあったとすると川俣の方で争いが激しかったのか、玉野村も米沢藩時代から境界争いの地だった。なぜ、米沢藩なのか、玉野村は最初横田大学という人が会津西部大沼郡金山谷の横田城から上杉氏に仕官した、それで上杉氏の城であった梁川城に配属された。そこに大学舘、大学曲輪(くるわ)と称されたとありそれだけ重きを成した人であった。相馬の城でも岡田館とかすぐそばにあるのと同じである。この時まだ伊達家の領地とはなっていなかった。その後伊達家が進出して領地化して玉野村にかかわることになった。最初にかかわったのは上杉氏であった。玉野村にはその後も伊達藩からも相馬藩からも入植がありともに住んだのである。上杉氏系統が一番古いのである。
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伊達義広 粟野大館(梁川城?)
伊達政依 梁川城?
伊達宗綱 梁川城?
伊達基宗 梁川城?
伊達行宗 梁川城?→霊山城→伊佐城→梁川城?
伊達宗遠 梁川城?
伊達政宗 高畠城→赤館
伊達氏宗 赤館
伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
伊達成宗 梁川城
伊達尚宗 梁川城
伊達稙宗 梁川城→桑折西山城→丸森城(隠居)
伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)


伊達政宗の前は梁川城を伊達氏は根拠としていた。

●玉野村が前は笹町-その由来の謎?

玉野村の前は笹町と言われていた。そこに昔から家が集まり建っていたとあり最初に入植した人々が住んだ。玉野村となる前に笹町があった。ではこの笹町の由来は何なのか?笹が繁っていたから笹町となったのか?それとも他に由来があるのか?

西館は笹町城とも言われた。名門葛西氏の家臣、笹町新九郎経尚の居館、本姓は千葉氏である(岩手県東磐井郡室根村)

『倒れ墓』と呼ばれる葛西氏家臣笹町彦三郎安頼の墓があり、牧山長禅寺の住職栄存法印(?〜1681)との因縁話が伝えられています。(石巻)

「懸田氏は源義家公の六男、陸奥六郎源義隆より出ず、十四世の後裔を高松近江守定隆と為す、定隆正中二年(1325)四月を以て、杉野目郷高松城に止住し、高松と称す。建武二年(1335)北畠顕家の命で高松城から懸田城へ移り、懸田氏を称した」と記されている。懸田氏は南朝方として活躍し、懸田城は霊山城や藤田城と共に南朝方の拠点となったのである。

戦国大名葛西氏の家中に掛田氏がいた。掛田氏は葦名氏に仕えていたが、故あって葦名氏のもとを去り、葛西氏に仕えるようになったという。

 正長元年(1428)、懸田氏は宇多庄をめぐって相馬氏と結んで結城白川氏と対立し、伊達持宗の調停によって和睦しているが、その後も対立関係にあったようで、永享二年(1430)幕府内で「懸田退治」が議されている。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kakeda_k.html

高松の地に入り次に掛田(懸田)に入り掛田を名乗ったのである。その土地の名を名乗ることは在地の勢力化したということである。この掛田氏が相馬氏と争ったということはすでにここから境界争いが始まっていたのだ。笹町の地名の発祥は不明にしても葛西氏に笹町氏とか笹町城とか現実になるのだから由来がここにないとはいえない、地名からだけ歴史を解釈すると歴史的考証としては誤る場合がある。掛田(懸田)とはかかるであり山にかかるとか山の上にある田である。県(あがた)-上田でもあった。日本では最初に田が作られたところは平地ではない、山の上の水に恵まれた地域だった。平地に大きな田を作るようになったのは大きな土木工事が大きな溜め池などを渡来人などの技術でできるようになったからである。奈良とは均(なら)すであり
耕地としてならしてできた都だったとなるのだ。


●玉野村がなぜ三っつの藩の境界争いに

玉野村はやはり地理的要因で三つの藩の争いの場所になったのだ。米沢藩も伊達藩の前に領地として所領していた。そのあとに伊達と相馬がかかわってきた。だから最初に米沢藩が玉野村を所領していた。米沢藩の人がいち早く入植していたのだ。ここは交通の要所でもあった。相馬から坂を上ればここから平坦なところがつづき石田や大石につながる。だからもともと石田郷の枝村としてあったことがわかる。ここはまた米沢藩で重視したのは相馬から塩などが運ばれる所として宿駅としてもうけたこともわかる。ここは宿駅となるべき村だった。なぜなら相馬から坂を上ってくるとどうしてもここで休みたくなるからだ。ここは地勢的な自然の境界なのである。

慶長3年(1598)上杉氏家臣横田大学は相馬海岸と伊達郡を結ぶ往還の中間地点に、「人馬疲労ニ難堪ヲ憂ヒ」、宿駅本玉野村を開いた

中世はここは急な坂だから卒塔婆峠を通り大倉に出た。それは霊山城が炎上して桑折氏などが南相馬市の真野に逃れた道だったことでもわかる。ここはまた山の入会権でもめたということは木材の供給地であり山の中まで境界争いしているのはやはり木材を確保するために争ったのである。当時は木材は相当な資源だったのである。飯館村の大倉は最初に所領したのは鹿島区の岩松氏であった。玉野村は浜通りではない梁川城や石田-大石から所領化されたのである。ではなぜこれも玉野村となったのか?高玉氏が山上にあり墓も残っていた。高玉氏が進出して玉野村となったのか?それは定かではない、地名からすべて解釈すると歴史考証的には過ちを犯すからだ。飯館村は合成地名だから分解すれば元の地名の痕跡がわかる。でも笹町からなぜ玉野村になったのかは不明である。みちのくの真野の草原の草原(かやはら)を地名としたとき真野郷となる前に草原(かやはら)という地名があったから歴史に残った。笹町も最初に人が移住して住んだ一地点名であった。ただここは最近知ったので詳細に調べないとわからない、その暇もないからできない、玉野村から山上地域には何か謎が多い、境界は歴史を研究する場合に重要になるからだ。ここは自分にとっては未知であり予測するのにも知識がたりないからおおざっぱなことしか言えないのである。

宇多郡玉野とその北東部における争論の歴史地理的考察 
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/1978/1/6-248.pdf

ここは詳しい、一万で詳細な研究書を出している。その一部がインタ-ネットのに出ていたので参考にできた。要するにインタ-ネットに学術書の研究論文が公開されていれば自宅でも素人でもかなり調べることができるのだ。図書館とかに行くと調べることが手間なのである。厚い本を引き出しては参照するのが手間なのである。だから今は暇がなくなったので図書館には5、6年以上一回も行っていない、なぜなら図書館では一日はりついていないと調べることができないのだ。本をもし十冊調べるとなるとかなりの手間であり労力なのである。つまり自宅で調べそれを発信しない限りもはやあとは何かできない、郷土史研究も最低近辺の町誌とかそろえて参考にしないとだめである。これを図書館でやると手間がかかりすぎるからだ。今までは暇だからできたが今やできなくなったのである。

sasasa1.jpg



補足


相馬藩政史に相馬 昌胤(そうま まさたね、寛文元年7月7日(1661年8月1日) - 享保13年10月6日(1728年11月7日)の時代に巡見使が坂本まで来てそれから相馬の城まで来た 。昌胤君御見舞とあるからこの時病気だったのか、その後笹町御休-草野御泊とあるから玉野村の笹町では休みそれから卒塔婆峠を通り大倉に出て草野についてここでは一泊した。とすると相馬から歩いて笹町で休みそれから大倉に出て草野まで来た。この行程は一日だったのだろうか?一日で歩けるものかという問題がある。その前に相馬のどこから出発したのか問題になる。馬ならこのくらいの道は行けたから一日の行程だったのかもしれない、歩くとなると一日では無理だろう。相馬から塩の道では栃窪を通り助けの小屋があったのはやはり一日では越えられないからあそこで泊まることがあったからだろう。とすると馬でも結構な距離になるからこの記録はさらなる検証が必要だろう。いづれにしろ玉野村がこの時はまだ笹町と言われていたことは確かである。

注-これはグ-グルのブック検索の「相馬藩世紀1」に出ていた。



posted by 老鶯 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
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