秋から冬の短歌十首(2)(山上-大倉-玉野)
伊達の将相馬の将や冬の暮
米沢藩古地図に残る冬の暮
十一(ジュウイチ)の入山上の森に鳴くその声聞き入る夏の夕暮
相馬より分け入り上る山上に流れの清し秋の朝行く
山上に流れの清し蝶の飛ぶ秋の朝かな奥に分け入れる
筆甫(ひっぽ)へと山分け入りてつづく道我が立ち止まる秋の夕暮
みちのくに攻防終えて静かなる北風吹きて城の跡かな
大倉は玉野の隣卒塔婆の峠の道や秋深むかも
大倉の奥は佐須なりその昔行き来淋しく冬となるかも
墓一つ標とあるも消えにけり大倉の奥冬となるかも
山上に落葉を踏みて佇みぬ中村近しも我が下るかな
三〇戸紙漉沢の昔かなその水澄みて冬に働く
山上に中村近しも薪運ぶ昔にあれや冬の日暮れぬ
自転車で前は山上から霊山辺りは相当行き来していた。ここ十年以上は行っていなかった。自分の仕事は旅することだった。例えば山上には入(いり)山上となると山上の上流地域になる。その辺に橋がありそこでいつも休んでいた。その時森の中から聞こえてきたのが十一(ジュウイチ)の鳴き声なのである。これは相当前でもめずらしいから記憶していたのだ。ジュウイチジュウイチと低音で鳴いてもこの鳥の姿を見ることなかなかできない、暗い森の中で姿を見せず鳴いているから神秘的である。あそこでこの鳥の声を聞いたが他では聞いていない、これなども相当暇人でないと鳥の観察もしにくいだろう。暇人だからその声を聞くことができたのである。
山上は宇多川の上流でも真野川などと違って川は短いからすぐ山に入り清流になっている。街中を流れている水は澄んでいないが山上に入るとすぐ清流になっているのだ。紙漉沢という地名が残っていて実際に三〇戸も紙漉をしていたのだからこの地名が残った。
冬は紙漉に大切な谷間の湧き水が冷たく澄む最適な季節。 紙漉は冬に行われる。冬は農家も仕事がないから仕事になり良かった。相馬では障子紙を作っていた。三〇戸もあるということはそれだけの需要があった。障子ならそれくらい必要になる。障子なら字を書く紙とは違いそれほど高等な紙とはならないから大量生産できたかもしれない、紙漉となるとぽつんと一軒二軒とかになっているが実際は三十戸もあったのだから村全体が紙漉の村となっていたのだ。
紙漉の俳句
http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_36%20kamisukisikoro.htm
山上から薪なども運ばれた。ここからなら馬車などで城のあった中村は近い、今は相馬市となっているが元は中村市であり中村駅だった。京都の大原などは相当遠いし奥地でありあそこから大原女が薪を運んだということが地理的にわかりにくい、山上だったら地理的にわかりやすい、城のある中村に山上からは障子の紙や暖房や燃料の薪や炭、松川浦からは魚が供給されたことは今でも簡単に想像できる。玉野村の隣は大倉だけど大倉にとっては佐須の方が身近だったかもしれない、川が昔は道となっていたからそうなる。ただ卒塔婆峠は南北朝時代からあったのだから一番古い道であり大倉と玉野は行き来があったのだ。玉野村より大倉が早く開けた。岩松氏の時すでに大倉はあったからだ。岩松氏の伝説の地名が残っているからだ。つまり鹿島区の屋形から一族が大倉に逃れたからである。この辺では卒塔婆から筆甫に行っていない、まだ相馬藩内でも未知の道があったのである。
だから次はここを探索してみよう。
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