船見えず今日浪荒れて冬あざみ
太平洋小湊一つ冬あざみ
故郷に根付き暮らさむ冬あざみ
あざみは長く咲いている花というより草なのか、しぶとい花と言えない花である。昨日の余波か太平洋の浪は荒れていた。太平洋と日本海と瀬戸内海とは相当違っている海である。太平洋はあまり船も通わない荒寥とした海である。古代から航路は日本海にあったからだ。港らしい港となると松島辺りだけでありあとは点々と小さな湊が隠れるようにしてある。
故郷からは常に出て行く、住む気にはならなかった。一カ所にいるとやはり新鮮味がなくなってくるのだ。だから四、五年全く旅しないということは三〇年間旅してきたのだからこんなことになるとは思わなかった。でも六〇以上になればどこか一カ所に落ち着くのが普通だった。それは故郷でなくてもいい、この年になるとやはりどこかに腰を据えて落ち着き仕事をしたいとなる。
故郷ととなると仕事でもたいがい建築土木関係や農業でも何代かつづいている家が多い。
それで墓の仕事でも家の建築でも親がその仕事を請け負い建てたりする。次にその子供が跡を継いでやる。するとあなたのお父さんはいい仕事をしたとか、この仕事はずさんだったとか父親の代までその責任を問われる。墓を工事したのは三〇年前以上でもこれを建てた人は誰だ、土台をちゃんと作っていなかった、ずさんな仕事だと新しく頼んだリホ-ム業者に言われる、そしてこれが百万では高すぎると聞いて高いのに工事がずさんだとなり疑問に思うようになる。
三〇年前の仕事などすでに忘れていたが今になりその工事のいい加減さが問われたりする。
都会だったら誰が工事したかもわからないから問われることはもうないのだ。田舎だとそうした無責任なことをするとあとあとまで責任が問われる。同じ狭い場所で生活がつづくとそうなるのだ。だからあまり無責任な仕事はできない、狭い地域だから悪い評判がたつと仕事がてきにくくなるからだ。
人間どこで死ぬのか、死ぬ場所は人間にとって大事である。骨を埋めるというのはそこで自分の仕事を完成して死ぬということにもなる。旅ばかりしていたらそうはならない、あちらこちら転々としていたらやはり人間として完成する仕事はできない、遂に故郷で死んでゆくのが運命だったのか、東京のような大都会には今や行く気すらしない、結局そこには何の魅力も感じられなかった。東京砂漠であり何か得るものがなかった。人間東京に行ったからといって人間は変わらない、そもそも外国をいくら旅しても人間そのものは変わらなかった。一年くらい留学すれば外国の文化のことが肌でわかったかもしれないが旅だけでは無理だった。それだけ外国を理解することはむずかしいのである。死んだ家族の菩提を弔うということもあり遂に自分もここで死ぬようになるのか、自分もそんな年になったということである。
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