2009年11月21日

鴨(文机のこと)



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一室や茶の花挿しぬ文机

門を成す枯木二本や陽も没りぬ

鴨群れぬ異なる模様や夕暮れぬ



下の一室があいたのでそこに文机を通販で買った。通販は前は買わなかったけどこの頃買っている。これは一万ちょっとだから買った。こんなに安いものは地方では売っていない、おりたためて作りはいいものである。中の材質は相当悪い、中国で安く作ったものだろう。でも見た感じは悪くは見えないから別にいいだろう。家には部屋が5つほどあるが今使っているのは三部屋くらいである。三人いたときはみんな使っていたから三人いると部屋数は実際は五つくらい必要になっているのだ。この家はすでに一千万以上リホ-ムしている、リホ-ムだけには金かけている。通販というのは便利である。車かないと隣の市から実際は宅配で送られてくるから千円以上とられるから遠くから運んでもらっても送料はかえって安いのである。本にしても何かモノを書いていて調べるとき必要なとき千円以下だったら買っている。この買い方も今までにありえないことである。本の買い方自体変わってしまったのである。本屋に行って買うのとはまるで違う、誰でも調べ物があるときどうししても今までは百科事典とか本で調べる他なかった。今はインタ-ネットである、インタ-ネットに出ていなくても本の世界はインタ-ネットより膨大な蓄積があるから本を注文すれば知識は何でも手に入る時代である。ただ金がかかるからアマゾンの古本で安いの買っているのだ。

インタ-ネットは知識関係では相当な変化をもたらした。今までならこの文机で筆でで書いていた人もいた。もちろん万年筆で書いていた時代が長かった。しかしその時間は何か時間的に悠長なのである。筆で書いていたら本当に悠長である。「つれづれなるままに日がな机に向かいよしな仕事を・・・」とかなる。今はどうか日がなパソコンに向かっている。ここにもパソコンをおく、そして通信でネットとつながりモノを調べたり書いたりしている。これは実際は今までにありえないことである。作家がこの文机に向かい小説などを書いていた。でも今はこうしてすぐにプログに書いて発信する。それをみんながしている。そんなことが当たり前となってしまった。


今日買ったのは「生きられた家」という本であった。この本だって通販でないと手に入らない本である。この本の感想を今ここで書けばまたここから一室から発信されるものが増えてゆく、インタ-ネットの時代は発信することが膨大に増えてゆく、気軽に発信できるからだ。要するにこの世の中にそれぞれが語ることは無限にある。自分にしてもこれほど書いてきたけど書き足りない、毎日いくらでも書くことはあるのだ。一つの室がふえただけでもそこにまた何がしかの別な世界が生まれ書くこともふえてくるのだ。この本で西洋では家具は固定化して古いものが尊重される。古いものが価値がある。それは家自体が石であったり古びないからである。だから家具もその古い家とともに何代にもわたり使われる。日本では今や蓄三十年で建て替えとなると家具も長くは使わない、江戸時代辺りだと材質も良く職人が精魂こめたモノを作っていた。そういう職人技も今はない、単なるすべてが便利なモノとなっている。一時的に便利に使うものとなっている。だから現代はモノの価値は低い、模造品が無数にあるのもそのためである。ヨ-ロッパではアンティ-クが価値あるものとして文化となっているが日本では骨董となるがそれは家具ではない、陶器類であり家具は長くは使わないのである。


鴨が二種類、交じって川に群れて浮かんでいた。胸が白い鴨と普通の鴨である。「鴛鴦に 美をつくしてや 冬木立 -蕪村」この句と類似俳句になるが冬に一段と色が美しく映えるのを視覚的にとらえた秀作だった。鴨は冬の季語だった。これは秋の季語とまちがいやすい。絵は描けないから写真でとるほかない、他にちょうど柿の木が二本門になっている家があった。これも写真をとれば写俳になる。近くでも良く観察すると見ていないものがある。見るべきものがある。これだけ狭い世界でも俳句や短歌を作りつづけたことでもわかる。狭いと言っても相馬藩内だけでも実際は相当広い、隈なく歩けば一生も費やされてしまうだろう。今の時代グロ-バル化で世界大に視野が拡大化しても深く見ることができないという問題に直面している。海外旅行が浅薄になるのは深く観察することができないからである。

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