縁切れて遠くなりにきその姿思い浮かばじ芒枯れにき
縁遠く縁深くなる人の世や冬の日静か憎しみも消ゆ
人の世の縁の不思議やめぐりあい分去(わかれさり)に立ち冬の日暮れぬ
みちのくの真野の草原(かやはら)遠ければ面影にして見ゆというものを(笠女郎)があるけどこの草原を萱の原にしても萱原から人の面影など浮かばないのではないか?枯芒のなかで人の面影は消えてしまっている。粛条としてそこには何もない、親戚の縁でもはかなく切れることもある。縁遠くなりまた縁深くなる人もある。これが人の世である。長い縁でも死んでしまいばはかない、でもいつまでも死んだ人の面影を追いつづける人はいる。なかなか忘れられない、そういう人がいることは死者にとっては幸福なのか?たいがい死者も時がたつにつれてその記憶も定かでなくなり忘れられてゆく、人間とは無常である。憎むにしても実はその人と何らか縁があるから憎むのである。そうでなければ憎むことすらしない、全くの無関心でありその人のことを思い浮かべることもない、愛することは憎むことでもあったことがわかる。何ら関心がなければその人について何ら干渉しない、完全に無視するだけだからだ。あの人を死ぬほど憎むというとき本当は死ぬほど愛しているからこそかもしれないのである。それほどに縁あるからこそそうなっているのだ。実際に縁がない人は互いに簡単に速やかに忘れてしまうからである。ほんの一時の出会いで全く忘れてしまうのである。
分去(わかれさり)は街道のいたるところにあった。そこで人はめぐりあい分かれ去って行った。冬の日に分去にたたずみ分かれ去った人を思う。もう永遠に会わない人のことも思う。
静かな冬の日に思う。「さよならだけが人生だ」というのはまさしくこの世とはいくら深い縁でもみんな死んでゆき別れてゆくだけだとなる。愛することも憎むことも縁があったから起こることでありそれも一時でありあとはただ別れ去った道からその人を思うだけになる。
縁というのは実際死んでからもつづいている。先日、親戚の今は関係ない一人の女性が死んだ。この女性は不倫だなんだと迷惑かけただけであり災難を残しただけだった。だから娘からも見捨てられて死んだ。当然といえば当然の最後だった。でも墓参りをどうするのかと言っていたからやはり何かまだ縁をもちたいのかもしれない、縁は墓参りでつづいているのである。墓参りする人はそこで死んだ人の縁を継続させる装置なのだ。ともかく死者を思わない人は墓参りもしないからである。その時全く縁が切れてしまったことになるのだ。
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