2009年12月07日

冬籠もり(外の景色が見える部屋)

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小窓より外の景色や冬籠もり


主なき家の淋しき赤々と薔薇一輪や冬の日暮れぬ


物置のように使っていた下の部屋を休息のために利用するようになった。小窓が一つありそこから外の景色が見える。隣の大きな庭が見える。これだけ見ているだけで気分転換になり楽しい。自分の家は前は家にふさがれて外の景色が見えない、いつもいる場所は全く外の景色が見えないところにある。ただ風の音とか雨の音は聞こえる。人間はやはり外の景色が見えるだけで気分いいものになるのだ。空に流れる雲や光の変化だけでもそこにじっとして見ていても自然を味わえる。庭の前も家であり外が見えないから庭も映えない、借景としての自然が欠けているからだめなのだ。だから外の景色が広々と見える家に住んだらまた見える景色が違ってくる。そんな家田舎では当たり前だと言うがそうではない、一万の田舎町でも町と在では全然違っている。町は外の景色が家に塞がれれて見えないのだ。家と家の間が隙間もなく立っているからだ。一万の町でも町はやはり都会のように人との結びつきも薄い、代々住んでいる人も少ない、一方在は人と人の結びつきが昔のようではないにしろ強いのである。一万の町でも人の関係も違っている。これが5万くらいの都市になるとまた相当違っている。それでも郊外は田野が広いから田舎なのである。

「田舎暮らし」というとき農家をイメ-ジしているし山村のような限界集落に住むのが話題になっていて町のなかに5万くらいの街のなかに住むことが話題になっていないのが不思議である。そこも十分に田舎なのだが「田舎暮らし」としてとりあげられていない、そこはさほど都会と変わらないかもしれない、田舎暮らしは特別な辺鄙な所に住むことしか話題にならない、別に5万くらいの都市に住んでも田舎は楽しめるのである。過疎のひどい山村とかには住むべきではない、自分も隣の5万くらいの都市に移りたいのだ。病気のとき車がないから困るのだ。一万の町でも町から離れた在に住めばス-パ-など遠くなるから車なしでは住めないのである。5万くらいの都市に住めば車なしでも十分に便利な生活ができるのだ。それにしてもこのところ仙台に半年も行っていない、何か外に出れない、母が病気になって寝込んだら介護になったらまた外に出れなくなる。介護の問題は自由がなくなることなのだ。温泉に一泊して気分転換したいから介護を交代してくれとか切実なものとなる。介護とは牢獄に入れられたようになる。交代する人がいなとそうなるのだ。今回はお手伝いさんに家事をしてもらいヘルパ-の役もしてくれたので助かった。こんなに助かるものかと実感した。それも一日一万とかではない、まだ一日二時間とかだから安い、そして介護の助けは近くでないとだめである。隣の街が近いといってもここまで来るのが手間なのである。


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東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ 菅原道真



この家はなんとも前にも紹介した不思議である。廃屋ではない、一時的に空家にしている。車が庭にあり草ぼうぼうだったが草を刈り掃除していたからだ。だから主がないが主が帰ってくる家なのである。もう主が帰らない家が近くにある。病院で死を待っている女性の家である。跡を継ぐ人もいない家である。主が帰る見込みのある家と全く帰る見込みのない家は違っている。庭に一輪赤い薔薇が咲いているが主が帰るとしたらその薔薇の花も主を待っている、明らかに帰ることがあるのだから完全な廃屋に咲く薔薇とは違う、家族が帰る見込みがあるのだからまだ華やかさが薔薇にある。全く帰らないで放置された家もあり朽ちてゆく家も山村には多い、そういう廃屋は荒れ放題でありあまりにも淋しすぎるのである。

絵の才能が全くなくても技術でア-トで作れるのがパソコンである。枯木の写真を適当にインタ-ネットから探してアレンジした。これでも一つのア-トになっているから不思議である。ア-トは
確かに多様に作り出せるのだ。それは必ずしも才能と関係ない、作り出そうとする意志と関係していることもあるのだ。創造する能力も作り出そうとする意志があれば才能がなくてもできる場合があるのだ。ただ芸術を鑑賞する能力がないとだめだろう。鑑賞する能力も創造する能力と通じているからだ。

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