2009年12月15日

南相馬市鹿島区栃窪の魅力(冬の俳句より)

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水清し竹林に映えて寒椿

栃窪や古碑の並びて冬の雲

山中に命を保つ冬薊

栃窪に数本かそか冬柳

山の村一族の墓や冬木立



山の村落葉に埋もる一族の墓やその裔ここに生きるも

寂けさや木の葉一枚墓に散るそのかそけさや山の村暮る

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相馬藩内の村でもそれぞれ独自の雰囲気がある。栃窪には何でもないのだが一番感じるものがある。栃窪は古碑の村でもある。村には何かしら特徴がある。その土地と地形も深く関係している。栃窪は奥まった所にあるから鹿島区の奥座敷なのである。大谷(おおがい)という姓が多く一族の墓があり落葉に埋もれていた。他に山の中にはこうした一族の墓が残っている。ここも高速道路が通るからかなり風致が乱されたことは残念である。電動自転車はマウテンバイクにもなる、悪路でも坂道でも上る馬力がある。ヤマハのパスブレイスは坂道に強い、都会の急な坂道でも上れるように試行錯誤して作った。だからマウテンバイクにもなり馬力がついているからちょっとしたバイク感覚になっていて楽に上って帰ってきた。冬薊がその山中に残り咲いていた。平地ではみな枯れたがなぜかここに冬薊が咲いていたのは不思議である。山中でこそ保つ命があるのかもしれない、今日はかなり冷えていたが冬らしい冬になった。冬だと余り遠くには行けないからこの辺だと比較的楽に来れるからいいのだ。電動自転車で行動範囲が広がったことは確かである。ここは舗装されていないオフロ-ドでありマウテンバイクには向いている道である。いづれにしろ一つの村は宝かもしれない、それぞれの村に独特の雰囲気がある。一見何もないようでもそこだけが違うものを感じるのである。だから山中の過疎地でも一つの村が失われることは何か貴重なものとりかえしのつかないものを失われたのである。都会の人はそんな効率的でない税金を食う老人ばかりの限界集落はつぶせという。経済的にはそうかもしれないが逆に都会こそなくなっても惜しくないものともいえるのだ。


それは経済的な価値の問題ではない、アイヌでもカムイコタンというとき神の村というごとくそこに村があるということはやはり都会とは違う、別な価値を帯びていて神から見たら都会は失われてもいいが村は失われてはならない価値をもっている。自然にも神秘性があり村にもそれぞれ独自の神秘性がある。別な観点から見ると都会は経済的な価値だけが突出した異様な世界なのである。都会は惜しいとは思わないが村が喪失することは神から見たら惜しいと思うだろう。現代は余りにもすべてが経済的価値観で計られるよになったため様々な貴重なものが失われてしまうことになった。そもそも一つの村の価値を金で換算することはできない、そこに村があるということ人が暮らしているということに無限の価値があるのだ。野生の動物が鳥が自然とマッチして生きているようにやはり自然と調和して活きている村がある。大都会にはそれがないからいくら経済的観点から都会がいいと言っても価値が付加されないのである。だから都会から若者が田舎に移り住むことは経済的観点からした全く意味がない、馬鹿げている。でも別な観点からすると自然の中で生きることが無限の価値を帯びてくるのである。そこには貨幣では金では計れない価値がある。貨幣を越えた価値がある。本当に価値あるものは金では買えない、村の中の農産物を買うことはできても村全体をもっている価値を買うことはできないのである。それは部分ではない全体によって作り出されたものだからである。景観というのもそうである。景観の価値が見逃されるのは部分ではない全体の価値だから価値がつけようがないのだ。それでその全体の中で都会では知らなかった自然の中で暮らす価値の発見を体験する。自分はそこまでする根性もない、性格的にずぼらすぎる。だから田舎にいて都会的な生活をしたり鑑賞しているだけなのである。
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