2009年12月18日

相馬藩内の人の移動について


相馬藩内の人の移動について

●相馬藩の外部からの移民

南相馬市の鹿島区でも原町区でも前は鹿島町であり原町市であって街としてあり中心だったがもともとは鹿島村であり原町村だった。原町市が原町村だったというのは意外お思うかもしれないが原町村からは野馬追いに一つの姓で一つの旗しか記録のっていないのだ。他の村はいくつも旗が記されているから昔から農家として郷士が住み着いていたのである。一地域内にも人の移動がある。大きな移動は相馬氏の移住だった。次に大きな移動は越中や薩摩など全国にわたり相馬藩は飢饉に陥って人工が激減したとき三分の一くらい減ったとき相馬藩では「相馬、相馬と草木もなびく・・・」と民謡のコマ-シャルソングを作り全国から人を呼び寄せたのだ。だから鹿島区に薩摩内とか他にも九州地名が残っている。なぜ九州の方からまで相馬に来たのかというと様々な事情があった。薩摩に真宗が広まったのは越中などの薬売りが広めた。薩摩とは薬を通して深くかかわっていたのである。真宗が薩摩で禁止されて移住したとかあるのは薩摩と越中が薬を通して結ばれていたからである。相馬藩内で移民の影響はかなり大きかった。相馬藩の墓所を見れば必ず真宗系の墓が二割三割とありその影響を如実に知る。
今日見た六号線の脇の川子の小高い山の上の八龍神社のあるところから下ったところの墓所は三分の二くらい真宗系の墓であり越中などの移民でしめられていた。ここは集中的に越中の移民が住んだ場所だった。

富山の薬売りと薩摩藩」の周辺
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2008/07/magn_8ec0.html



●鹿島区塩崎からの鹿島町への移動(中田氏など)


塩崎の中田氏は文政十年十月、越中砺波郡中田村より当地に来る


中田氏と大岩氏は一緒に来た

記録にはこうあるがこれは塩崎であり川子ではない、でも川子にも越中系の移民が多く住んだのである。塩崎から川子へと移民は拡大して住んだ。塩崎は越中の移民が多い場所だった。
中田とか大岩という姓は実際に鹿島区の鹿島町内にその姓の人が住んでいてその子孫である。もともと農家だったのだが町にきて大工とか菓子屋とかその他商売やら職人となって町を形成した。町はまず近郊の在-農村から移動した人たちによって人が集まり形成された。だから代々続いている家は少ない、でも農家だった家は町のなかでもかなりある。その家は広い庭と敷地をもっていたし今ももっている家がある。その家は古い家なのである。そのあとに職人や商売する人がすみついたのである。面白いのは鹿島区の鹿島村の橲原(じさばら)に橲原田がある。これも橲原の人が移り住んで田を作ってなづけた。橲原(じさばら)という奥から鹿島村に移り新しく田を作ったという不思議があるのだ。中田氏については明確だが大岩氏は大岩村から移り住んだのだろうか?不思議なのは詳細な字を記した地図に大岩下とある。これも地名だとするとこの大岩から大岩の姓となったのか、越中から移住したとなるともともと大岩姓だったのか、移住しても土地の名前をとることがある。相馬氏は移住しても相馬という地名はなかった。土地の名前の中村をとって中村と名乗る人はいた。とするとここに大岩という地名がありその地名を名にしたのか、この辺が混乱するのが姓と地名の関係なのである。

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●明治になってからの人の移動



相馬藩は小さいから中村市(今の相馬市)に城が作られてもそこに城勤めする人は少ない、郷士として農家として住み着いた。農業と武士の兼業だった。相馬藩で一揆が起こらなかったのは農民のなかに郷士が多く武士が多いから純粋の農民が少ないから不満があっても反乱できなかった。北朝鮮では兵士の数が多い、農民のなかにも兵士がどこでも交じっているからなかなか農民が苦しくても反乱を起こせないという、監視役の兵士がいたるところにいるからだ。明治維新で郷士が武士階級が廃止されると武士は失業したのだから職探しが大変だった。それで北海道への移民が推奨され武士が大量に移動した。仙台藩は伊達氏は大打撃を受けたし武士の数も多かったから移住した先が伊達氏となった。ゲルマン人の移動ではないが社会の大変革時期には大きな人の移動が起こる。絶えず人は移住している。小さい地域内でも移住しているのだ。また移住を強いられる運命にもあるのが人間である。一カ所で人が住むにも人が増えれば耕作地域を広げねばならない、それで分家して新しい土地を耕すことになる。明治維新でもやはり農業中心であり開墾することが新しく住む地域を広げることだった。それで相馬藩の中村の城下の武士は鹿島区の八沢浦を干拓して移り住んだ。田の中に妙見神社があるからわかる。普通は田の中には妙見神社はあまりないだろう。つまり城下に住んだ武士はまた郷士のように農業に帰ったのである。その頃まだ農業が主産業でありそれで人を養うほかなかった。相馬藩でも北海道にかなり移住した。どこだか不明になったが鹿島区江垂の宝財(ほうさい)踊りをしていた町があった。祭りも北海道に移民した人がそのまま伝えたのである。その後も人の移住はつづいた。遂には農耕地を開墾地を外国までにも求めるようになった。満州がそうでありそれが戦争にもつながったのである。日本にはもう開墾する土地がない、外国しかない、満州はどでかい、いくらでも土地はあるとなり移住が戦争となり悲劇を生んだのである。ゲルマン人の移動でないにしろ移住することが戦争になることがある。アメリカも移民がインディアンを殺戮してできた国であった。戦後も土地を求めて移民はつづいた。アメリカにもブラジルにもペル-にも移民がつづき藤森大統領まで出たことでもわかる。農業は土地が必要だから土地を求めて移動するようになるのだ。二十世紀になり工業化したが基本的には農業中心の世界だったのである。

原町の名の起こり
http://musubu.sblo.jp/article/25384267.html

八沢浦の妙見の祠

http://www.musubu.jp/somahantokushoku.htm

posted by 老鶯 at 20:09| Comment(12) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
この記事へのコメント
初めまして。時々ブログを読ませて頂いている東京在住の者です。
母方の祖父が相馬出身であることが分かり、(生まれる前に別れていて、その後戦死していました。)先祖をたどっているところです。江戸時代末期に薩摩から移住したことが分かりつつあります。「荒」という相馬ではよくある姓なのですが、現在の鹿児島では
殆ど見当たらないようです。ごの姓の起源は何なのか、ご教示頂けないでしょうか?
Posted by 小早川 幸江 at 2013年07月30日 18:37



アラ 荒 福島県、北海道、宮城県。@安良と通用。福島県相馬市中村に江戸時代にあった。A富山県での荒屋の屋号から。ほか。※任那系に荒公があった。
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2863772.html


京都府、兵庫県にみられる。関連姓は荒氏、安良氏。荒公(任那帰化族)などにもみられる。荒れた土地や新開拓の地の意味。現兵庫県の日本海側である但馬国の名族にして出石郡安良邑発祥ともいわれる、丹後に同族。ほか平氏宗氏族。
http://www.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%8D%92%E6%A8%8B

関連姓は荒氏、安良氏。荒公(任那帰化族)などにもみられる。現茨城県である常陸国鹿島郡荒野村が起源(ルーツ)である、現長野県である信濃にもみられる。近年、茨城県行方郡や鹿島郡に多数みられる。語源は、新田開発でできた田や村からきている。地名としても全国に多く存在する。「野」は自然のままの広い地を表す。
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%8D%92%E9%87%8E

水戸市金谷に「金坪、荒久、荒屋、扇田」がある

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

相馬では荒という姓は話題になっている。それは鉄を生産する一団の一族の姓なのだろうと言われる。そして荒は任那帰化族はあるさようにもともとは朝鮮系なのである。江戸時代の鉄の生産にたずさわった人たちは古代からの継続がありその名を名乗っていたのか?
荒といっても今は単に荒れているとかなるし朝鮮系統の言葉だとはわかりにくい、朝鮮系も日本に同化したからわかりにくいけど古代においてはかなりの技術者が朝鮮系から任那であれ百済であれ入ってきた。百済が滅亡したときも大量の百済人が入ってきた。その人たちは技術をもっていて鉄の生産やみちのくの黄金を掘り出した。その荒が姓となったのか?荒一字だとその可能性が強いかもしれない、二字になると荒田とか荒野とかいろいろあり不明になる。日本名化してくるから今でも在日の人はわかりにくいのだ。

陸奥の真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

万葉集の草原は単なる草原は萱原ではなく伽耶の国に由来するかもしかれないと考察した。荒もアラ国という国が朝鮮半島にありその地名に由来して姓があるのかもしれない、ここに唐神という地名があるのもそのためである。唐は韓(から)であり韓国に由来して仏教のことである。

この真野の草原の地域では鉄が大量に生産された跡が発掘されて有名である。だから荒とは古代にさかのぼり伝えられたものなのか、そうも言われている。ただそう書いてある本があったがわからなくなった。

いづれにしろ荒という姓が九州にはあまりないとするとそれが相馬藩から移動したものかどうかはわかりにくいでしょう。京都とか兵庫とかにもあるとなるとわかりにくいでしょう。

ただ江戸時代に相馬藩は飢饉で苦しみ全国から人集めをした。その中に九州の人がいたようです。
どうして九州のような遠くから来たのか?それは越中の富山県とかから移住してきた人たちが多数いたからです。その富山県では薬売りが有名でありその人たちが移動して相馬藩の窮状を伝えたのかもしれない、現実に富山藩では富山の薬売りの入るのを拒否していました事実かある。それはインタ-ネットに出ていました。

どういうわけか豊後とか対馬谷地とかの地名が相馬藩にある。それは九州の地名なのである。ただこれが九州の人が移住して名前をつけたのかどうかわかりにくいです。
ただ江戸時代の相馬藩の飢饉のとき九州とかかわり人の移動があったかもしれない、でもそうなると遠いからその辺を考証するのはむずかしいでしょう。

一応相馬藩の私的広報係であり宣伝プログでもあるので答えておきます
Posted by プログ主(小林) at 2013年07月30日 21:24
小林様
丁寧で的確なご返答、ありがとうございます。
割合広い農地をもつ農家だったので(直系の子孫が一人残っています。)新田開発に関わっていたことと「荒至重」にちなんで名字を付けたのではないかと、私的には思います。
宮城県南部にも荒姓が多いので、越中や薩摩からの移民であるか否かに関わらず、新田開発・荒地耕作に従事した者、朝鮮帰化で鉄生産に従事した者も混在しているのかもしれません。
稚拙な文章で申し訳ありません。また質問するかもしれませんので、宜しくお願いします。
Posted by 小早川 at 2013年07月31日 08:31
うちも、荒だけど相馬中村藩で武士をしてましたよ!600年以上前から荒ですけど?
Posted by 荒ちゃん at 2014年07月29日 18:05
小林様

久し振りに覗いてみると、武士の子孫である「荒」さんからコメントがあったようですね。
その後、戸籍関係の書類を取り寄せることができ、高祖父母が夫婦養子で荒家に入っていることがわかりました。高祖父は、○○村の「丹波畑留祖治郎」の七男となっているのですが、名字が「丹波畑」なのか丹波から来た「畑」さんなのか見当がつきません。高祖父は1845年生まれです。
よろしかったらご教示下さい。
Posted by 小早川 at 2014年08月07日 15:35
小林様

もう一点、「荒至重」の父「荒喜左衛門」の親兄弟について情報はお持ちでしょうか?
よろしかったら、教えてください。
Posted by 小早川 at 2014年08月07日 18:45


遅れましたが相馬藩内に荒姓は多いです
身近にも結構います
それがどこに由来しているのか
そもそも荒姓は渡来人のツヌガノアラシトが来ているんです
アラシトとはアラのシトでありシトはヒトでしょう
アラという国が古代にあってその名が伝わった
ではなぜ相馬藩内に荒姓が多いのか?
それは古代からのつながりなのか
それはどこかで書いていた人がいましたがわからなくなった
姓も大きな歴史です


なぜ岡和田というのは相馬藩内に岡和田という地名があり
そこから発したのかということなのかとなるが
それもわかりません
岡和田は狭い地域ですから・・・・


むずかしいかもしれませんがここを参照してください


鴻(こうのとり) 地名のの謎
(浪江のこうのくさ(鴻草)は砂鉄を求めてきた渡来人の跡?)

http://musubu2.sblo.jp/article/102552322.html
Posted by プログ主(小林) at 2014年08月19日 21:51
荒姓が朝鮮系と決め付けるのは早計ではないのか?そもそも製鉄技術は半島から来たわけでもない
Posted by 烏 at 2016年03月06日 19:18
私も荒で、何かルーツがわかればと思っていたらここにたどり着きました。諸説あるようですね。 

別のページで見つけた記事です。

http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/35487449.html
Posted by ちゃん at 2016年04月15日 17:08
わたしも「荒」姓です。
わたしは鎌倉市在住です。
ずっと、自分の名字の歴史を知りたくて、色々見てたら、こちらに辿り着きました。

意外にも、この場で記述がなかったので、記載させていただくのですが、私がネットで調べた限りでは、荒氏一族は、古来は朝鮮半島から渡来し、鎌倉時代に御家人の三浦氏に仕え、その後、北条氏に滅ぼされて、一族は北に逃げたと推察する記述が多かったです。
でも、あくまでもネットの情報なので、その真偽が知りたくて、こちらにたどり着いた次第です。

実際に、横須賀の衣笠というところにある三浦家の菩提寺!?に残っている古文書を見ると、三浦氏一族を支えた「三浦24姓」(26姓だったかも)の中に「荒」姓があるようです。下記Wikipediaから見れます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/三浦氏
他にも、
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116e1.htm
にも、荒氏の記述があります。

三浦氏は鎌倉時代後期に、北条氏に敗れ、北へ追われる身になるのですが、その時「荒」家も一緒に北へ北へと逃れて、相馬に土着したのではないか?と私も思う次第です。
ですので、鎌倉時代以降に、荒という姓の方が相馬に多いし、藩士として代々仕えているのも、つじつまが合う気がするんです。
古来に渡来したならいいのですが、中世に朝鮮から渡来したと推察されちゃうのも、なんとなく嫌だなと思うし、あと、荒地の開拓者だったから、荒という名前がついたと思われるのも嫌だなと思ってしまう今日この頃です。
皆様のご意見も聞きたく存じます。
長文失礼しました。
Posted by わたしも荒です。 at 2016年05月26日 11:32
荒の由来について百済より荒氏来ると叔父より古書みせられました.任那荒公が百済に仕え日本に渡っ推察されます
たと思われます.
中国韓国になどからわ荒の姓はありませんので,由来は荒神荒神社関係から推察されます。
Posted by 荒 at 2016年06月02日 02:13
任那荒公については,安良と日本氏姓禄にはきさいされています.日本書紀神功記に安良として載って

おります.


Posted by 荒 at 2016年06月02日 02:35
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