相馬市成田の五郎右ェ門橋の由来
水主-五郎右ェ門と尾浜村の松川寺の人別帳に記されている。五郎右ェ門橋とは間違いなくここからきている。ここは尾浜村の五郎右ェ門が開墾した田がありその後橋がかかりその名がついた。松川では塩場とあり塩を作り魚をとり田畑を耕していた。川船も持っていた。ただ人を養うのには田畑を増やすことでありそれで成田の方に開墾地を求めてきてここに田を作ったのでその名が残った。海の方の漁村から平地の方へ開墾して田を作る人もいた。今田も新しく開いた今の田である。尾浜とか原釜の回りは湿地帯でありそこを田にしたのは原釜や尾浜の漁師もかかわっていた。地理的には成田の方が拓き安いからこっちを選んだのかもしれない、これは資料に明確に記されているから由来は間違いない、この人には姓はないから武士ではない、十一人の大家族だからやはり田を新しく開くことで家族を養おうとしたのだろう。人の名前が地名化するときはよほどその人の貢献が大きかったはずである。だから名前が残ったのである。橋を作ったからとか橋だけからこの地名が起こった思えないからだ。
【江戸時代の最新記事】
- 原町区上高平の春 (相馬藩の越中な..
- 文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読..
- 橲原(じさばら)の山神社から堰を訪ねる ..
- 相馬焼きの歴史 (縄文土器から始ま..
- 大工から棟梁へー建築の歴史 (人間..
- 江戸は大消費地ー働かない侍が50万人 ..
- 相馬藩では郷士が多いから兵農分離されなか..
- 「相馬藩寛文8年百姓一揆の歴史的意義ー鈴..
- (冬の城下町)相馬市が城下町であったこと..
- 相馬藩への越中加賀などからの真宗移民はな..
- 元禄時代の新田開発された場所は水害を受け..
- 相馬市新田寺田に元禄の碑 (松川浦に接し..
- 相馬市日下石や柏アや磯部の歴史 (..
- 江戸時代の飢饉の歴史 (歴史の闇に..
- 南相馬市原町区の大谷(おおがい)村の由来..
- 南相馬市の鹿島区の隠町(かくれまち)の地..
- 本当はブラックな江戸時代 (戦後十..
- 老人の性にあうもの (時代劇を見..
- なぜ人は移住するのか? (深野の佐..
- 下北高平の広い土地の家が壊されていた ..