相馬藩の城南十景、北山八景の短歌の感想
山上春霞 真柴たく煙も空にうち消えて長閑にかすむ山上の里
芦沼微雨 芦沼のあしの若葉に波越えて汀ぞひろき五月雨のころ (黒木田-岡本-成田)
高松寒月 高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月
小野晴雪 分けのぼる小野の細道風さえて雪に晴れたるあけぼのの空
中野 飛雪 寒けしなゆき来も絶えてふりしきる雪の中野の冬の夕風
山上は相馬の城から比較的近いから柴などが燃料として実際に運ばれていた。真柴たく・・・ということで生活的にも身近な山である。黒木田と岡本-成田辺りは芦の沼がまだ多かった。それで五郎右ェ門橋とあるのはやはり開墾されるべき田となるべき地が広がっていたためだろう。城の近くでもそうなっていたのである。小野という地名は野という地名は山の中の傾斜地であるから地図を見ればそこにふさわしい場所となっている。小野の細道とは昔の道は城の北側の高い地域を通っていた。今城のあるところから東側でも相当な湿地帯でありあとから田にされていったから山側が古い道なのである。昔の地形を想像するとき湿地帯が相当に広がっていることを知らねばならない、その湿地帯を通る道はない、だから山側が昔からの古い道である。
成田の墓地を見てそこから急な坂を上ったところが高松でありそこに隠されるように墓地がまたあった。
高松の山風寒く暮るるより面影すごき冬の夜の月
これはぴったりだった。あの坂をのぼり山の頂上に隠された墓地を見ればわかる。面影すごき・・・地となっているのだ。これも実際に上ってみないとわからない、当時あの坂を上るのは容易ではない、一旦上ったとしても面影すごき・・・として印象に残った。この歌が一番リアリティがあるし今でもその地形そのものは変わっていないから納得する。実際中野村でも淋しい雪の景色が歌われている。城から近くてもこれだけ淋しい風景なのである。そしたら万葉時代はどうなるのか?城もない、何もない、人も本当に住んでいたのかもわからない・・・そんなところで
「松が浦に さわゑうら立ち まひとごと 思ほすなもろ 我がもほのすも」波がたつように人の噂が盛んにたつようなことはありえいない、そんな繁華な場所ではない、そもそも人がそこに住んでいるかどうかもわからない地域だった。城ができた江戸時代ですらこれだけ淋しい場所だったのである。それからさかのぼること700年とかしたら一体どんな景色になるのか?ほとんど荒野になっている。この辺はその頃そんなに開けていないのだ。ともかく狭い郷土史でも地理が地形が基礎になっていることがわかる。高松という場所も上ってみてはじめてわかったのである。
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