湿地帯に囲まれていた田中城の興亡 (南相馬市鹿島区)
台田中の田中城は中世の中核的館として存在した。だからこそここを中心にして伊達氏と相馬氏の争奪戦が起きた。台田中には館の内という地名もあった。館とつく地名は鎌倉時代以降にさかのぼるものであり古いのである。館とつく地名があったら中世からある地名となるから注意する必要がある。城の前は館がその地域の中核的存在でありその館を中心にして村落が形成された。竹の内も同じである。相馬市の・・竹の内もそうした中世の館があったところでありそこから姓となった。そのあと相馬氏系統の渡部氏が成田に土着したから竹内-武市は竹の内という地名から姓としたのである。相馬氏系統に竹内氏はいなかったからである。つまり竹内氏の方があとからきた相馬氏系統より古いとなるのだ。台田中もそうした古い堀をめぐらした館であった。そこで人々は生死をともにする生活をしていたのである。
「館(たち)」「館の内」「堀の内」という場合の方が多かったと思われるわけである。鎌倉中期からこれらの土豪は所領拡張の争いから山城を構えて社会不安に備え、南北朝の争乱の後はいよいよ堅固な防備の城を築いた。
嵐山町誌156 武士に関係あるもの 城
http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2009/08/156_fcab.html
南北朝時代から戦国時代と争乱の時代になり山に砦、館を築くことが多くなった。霊山城はその象徴である。
千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。
此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)
田中城は大淵とあるから相当な湿地帯が囲みその中の高台に城があった。台田中となるのはそのためである。台(ダイ)と今でも言っているからダイという地名は各地にあり日本は湿地帯が多いからその湿地帯から高くなっているところは住むに適していたのである。ここも台の回りは湿地帯であり容易に近づけなかった。その後この湿地帯が田になっていったのである。だから田中城となった。ここにも冬の陣から夏の陣と長い戦いになった。石田治部少輔三成はは秀吉の臣下の有名な三成だった。三成は太閤検地のときも相馬氏と関係していた。近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)石田となるのはここから来ている。
元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、以来三成と昵懇であったためであった。
その後相馬氏は徳川につき大阪の冬の陣、夏の陣に参加する。ここで堀を埋められたことで大阪方は戦意を喪失したということでもわかるようにいかに堀が重要な役割を戦国時代に果たしたかわかる。だから堀の内、竹の内、館の内・・・とかは重要な地名であり姓となったのである。田中城は相馬地方では重要な城であり歴史の興亡の地点だった。慶長6年(1601)「田中院殿陽山吉公大居士」と戒名があり南屋形の川子内の御壇に北郷田中城主田中忠次郎郷胤の墓がある。鹿島区の町にある陽山寺はここから起こっていたのである。なぜならこの時田中城主の叔父にあたる僧もともに戦ったからである。僧侶も僧兵となるごとく寺は武家と一体化していたのである。武家の菩提寺として寺は武家と一体だった。相馬地方で墓を調べても古くても元禄である。これは葛尾村の落合で発見したがこれが実際に見たのでは古い。あとは百年後とかずっとあとなのである。相馬地方で残っている碑で墓ではそんなに古いものはなかった。
台田中の墓を調べる (田中城に由来する墓?)
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