2010年01月20日

南相馬市長選挙渡辺氏の敗因


南相馬市市長選挙渡辺氏の敗因


●近くの地下歩道は高架歩道橋で十分だった

渡辺市長の敗因はやはり600億という借金を作ったこと、ハコモノ行政で無駄が多かったことかな、近くの都会並みの地下道は必要なかった。小学生の安全なら高架橋でまにあった。その高架歩道橋のことに気付いていなかった。小島田から塩崎に行くところはここより人が通らないから高架橋だった。それを良くみていなかった。高架歩道橋で十分だった。これだったら百分の一でも千分の一でまにあった。地下歩道は一年近く工事していたからその額も軽く億は越えていた。
これは工事業者のための工事だったとしか言いようがない、今でも利用しているのはわずかである。距離的に長くなるからかえって自転車なら待っていた方がいいのである。つまり高架歩道橋で十分だったのだ。その無駄は余りに巨額すぎたのだ。公共事業を減らすなというのも一理あるが無駄なものに使っていては住民も利益とならない、図書館だって豪華すぎるしこれもハコモノ行政で批判された。やはりすでにこうしたハコモノ行政に不満がたまっていたのである。


近くの地下歩道は必要だったのか
http://musubu.sblo.jp/17471729article/.html


南相馬市鹿島区の踏み切りで交通事故
http://musubu.sblo.jp/article/29848104.html


●ハコモノ行政は時代遅れ

産業廃棄物問題でも議会でもめていたし裁判にもなっていたのだからこれも敗因の大きな要因となった。産業廃棄物問題は全国で問題になっているしこれをすでに地方地方で解決すること自体むずかしくなっている。国レベルでちゃんとした基準を作り国レベルで取り組まないと汚染だけがすすむだけである。これに取り組んでいるのが暴力団関係だったとかでは困る。
いづれにしろ600億円もの借金にしたことはやはり大問題であり失政だった。やはりコンクリ-トから人へという民主党の政策は方向としてはまちがっていない。もちろんそれは景気を良くすることにはつながらないとも反論はある。しかしJALの問題にしてもいらない地方空港を業者のために作らせたり膨大な借金を作りそのつけが国民に回ってくるのではやりきれない、ダムにしてもそうである。公共事業の無駄は今や時代にそぐわない、景気刺激策にはいいというのはやはり時代的にそくわなくなってきた。コンクリ-トより人というときやはり人間の価値はモノにあるのではない、人が一番実は価値あるものである。ハコモノの会館を作っても例えばその中で芸術的活動するとき実際は芸術を作り出す人の方が大事なのである。その人そのものを支援した方がいいのだ。だから農家に個別に支援するというのも今までにはない発想となる。善し悪しは結果はどうなるかわからないが時代的にはモノ余り時代には人そのものに支援することはまちがっていない、人が死ぬと巨大な空虚が生まれる、その穴埋めはモノではできない、事故で子供をなくしたりしたら確かに億の金をもらってもその子供自体は帰ってこない、それでモノを買っても穴埋めはできない、ところが子をなくしたらその代わりになるのはやはり人間である。また子供ができたとか子供を別にもらったりするとその穴埋めができる。その時人間こそ価値あるものでありモノには価値がないのだ。その時人に金を使うべきでありいくらモノで満たそうとしても満たせないのである。


●コンクリ-トから人へはやはり時代の価値観の変化

人が価値があるというとき確かにいろんな分野で人より機械が価値ある時代である。例えば中国で麦を収穫するのにコンバインと人では千倍くらいの能力の差がある。一方は鎌一つで出稼ぎに来ていた。麦を刈れる量はとてもコンバインとは比べることもできない、それほどの差があれば人間の能力は余りにも差がありすぎるから人間の価値はコンバインに比べたら無きに等しいとなってしまう。でも一方で人間の価値が高まる分野もある。介護とか福祉の分野では人間そのものの価値が高まる。これは全部機械でやれる分野ではない、人間と人間が直接向き合う現場だからである。お手伝いさんでもヘルパ-でも単に掃除、洗濯、料理だけするというものではない、前にも書いたけどその先祖とか家族に深くかかわるものとなる。将来は介護も看護もロボットが大きな役割を果たすというのもありうる。持ち運びとかはそうだろう。でもロボットに人を慰める心をもつことはできないだろう。どんなに機械化しても人間でしかできないことは残るしかえってその人間にしたできないことが今度は機械化されると価値が相当高くなる。何を言っているんだ、介護士の給料は最低だよ、そこでは人間の価値は認められていないとなるがそれはまだ過渡期であり社会的に価値が認められていないからだろう。看護師だって最初はあまり価値が認められなくても今は認められている。時代によって価値観は変わる、重いモノを運んだりする力仕事は機械の方が効率化されていいだろう。でも必ず人間にしかできないことが残る。そういうものは逆に価値が高まってくるのだ。ハコモノの会館より価値あるのはそこで芸術を演じ創作する人そのものが価値があるのだ。コンピュタ-にしたってコンピュタ-そのものの機械の価値よりコンピュタ-を通じて新しい価値を創造する人が価値あるのだ。コンピュタ-そのものは最初は馬鹿高いが今や誰でも持ちえるものとなったから余計にそうなのである。


民主党がすべて肯定されないにしろやはり自民公明政権を国民が否定したことは時代だったのだ。官僚支配もそうだし検察の行き過ぎもそうである。検察を止めるものがないこと、検察が絶対的に正しいというマスコミなどと一体化した議論もおかしいのだ。そういうことに挑戦しえたことも政権が変わったからなのである。

posted by 老鶯 at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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