2010年01月29日

春の短歌十首(病院に一年寝たきりの老人)


蝋梅の家の中より庭に見ゆ家に死なめや石も落ち着き

春になり花二つほど買いにけり新しき庭部屋より見ゆる

手水鉢に月の写れる春なれや誰かたずぬる人もありなむ

病院になお生きにつつあれかな春になるとも立つこともならじ

病院に一年寝つつ春なるも何か思わむ何か見るべし

病院に一年寝つつ春なるも隣は誰そ手編みする女

病院に一年寝つつ春なるも看護師忙し思うべきかな

癒されず遂には死なむ人なれや春になりしも報わざれなむ

白鳥の餌を待ちつつ鳴きにけりその声ひびき冬も長しも

この川に長くもあれな鴨の群れなお飛びたたず冬の長しも


 

療養型病院に一年も寝たきりでいる老人、その女性を思ったらずいぶん長い。姉の場合は8ケ月くらいだからこれも結構長かった。見ている方も長く感じるし本人はもっと長く感じている。一年も世話する看護師とか介護士とかも大変であり長いなと感じる。それ以上に十年とか寝たきりの人が現在ではいる。それで今日陪審員が加わって福島県での介護殺人の判決がでる。介護が長すぎることが死ぬまでの時間が長すぎることが現代の介護の問題なのである。あわれだというときそれが延々と終わりなくつづくように見えるとき耐えられなくなる。あわれという感覚が喪失してしまうのだ。今自分があわれだと言っているのは自分が苦労して介護しているわけでないからである。下の世話を毎日していたら嫌になる。家族も病院に入っていると楽なのだ。実際に家族は何もしていない、何の苦労もしていない、かえって金を自由にできたらしく金を使っているから腹ただしくなる。一番苦労しているのは病院で世話している人なのである。そしてそのための費用が大変なのである。一人30万とか介護保険から払われているがそれもいづれまかなえきれなくなる。介護はこれからますます大変になる。数もふえるし病院にも入りきれない、あんなふうに一年以上も世話してもらえるのか?そういうこともできなくなるときどうなるのか?在宅で世話するのは理想だけどその犠牲になる家族は耐えられるのか?それで介護殺人がこれからも数が増えてくる。

 

人生最後のときはみな病院で迎える。それも長いのだ。自宅だったら庭があればそこで花を見たりもできる。病院ではそれがない、でも最後の場所は病院なのである。そこで死ぬまでの時間過ごすのである。それも長くなる。一年も寝たきりの気分はどうなのだろうかと思ったときずっしりと重いものを感じた。それは本人もそうだが回りの人も世話する人もそうなのである。その人は家族でないにしろ世話になった人だけどその姿はやはり現代の介護問題を象徴していたのである。

河原に群れている白鳥と鴨を毎日見ている。白鳥は夕方になるとしきりに鳴く、餌をもってくる人を待って鳴いている。白鳥が飛び立つのはまだまだである。冬もつくづく長い、春は名のみの時期でもある。旅行に行かないと家にばかりいると時間がたつのが遅い。鴨の群れにしても長くいる、

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子

この鴨も長く磐余の池に群れていたことがわかった。古代の時間は今よりずっと長い、そして同じ場所にいる時間が長いのである。その鴨が今日のみ見てやと死んでいったのが大津皇子だったのである。実際は今日のみ見てやと別れる時間が長いのである。大津皇子の場合は若いからそうではなかった。無理やりに引き離されてしまったのである。

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