2010年02月25日

春の月(茶の湯は極めてメンタルなもの)

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明日も来る手伝いの女春の月


手水鉢氷の溶けて春の月禍消えて写りしを見ゆ

手水鉢氷の厚く溶けざるに我が茶室茶碗手にとる三つほどかな


庭に手水鉢とも違う、水をためる器がある。それが今年は寒いから氷が厚く張ってなかなか溶けなかった。別に茶室などないが部屋に安物だが茶碗があったので飾った。抹茶でもめんとうだからたてたりしない、お湯を入れてすぐ飲めるのがあったので買った。茶の湯は老人に向いている。スロ-であり悠長なのだ。茶の湯の精神は今のような忙しい時代にあっていない、江戸時代のような人間が親密に交わる時代にあっていたのだ。時間感覚がまるで違う、騒音もない、じっくりと対面してお茶を飲む、そうした時間が今はもてない、相当にそういう悠長な時間と静寂の空間を故意に作り出さない限り茶の湯の心を知ることはできない、茶の湯はいろいろな作法でも道具にこることでもない、昔の悠長な時間の中で文化を再体験することなのだ。だからいまのような時代ではそれを演出する必要がある。旅すら昔のような旅をするなら相当な演出をしない限り旅が何であったか体験することはできなくなっている。歩いて旅する人が確かにいるがやはり途中でバスにのり電車にのるし車の騒音の中で歩いていることが風景としてマッチしないのである。つまりもはや昔と同じ旅などできるはずがないのだ。なんとかできるとしたら想像の中でするほかなくなっているのだ。

昔に戻るには環境も時間も今とは全く違ったものとしてある、だからこそ体験できないのである。でも茶の湯を体験するならやはりそうした昔の時間を再現することが大事になる。茶の湯の体験は昔に戻ることであり昔の時間を再体験することである。だからあえて忙しくではなく悠長にする、今のような忙しい時代では相当な暇な人しかできない、茶の湯はどうも退職した人、老人に向いている。今や昔を思い出してバイクに乗っている中高年も多い、アクティブな時代である。以前として登山などは盛んだからいちがいに言えない、これは人にもよるだろうが自分は特に静観的な人間だった。だから俳句でも写生があっていたのだ。団塊の世代が生きた時代はアクティブな時代であった。車社会になったのももっともアクティブな時代を象徴していたのだ。でも老人になればどうしてもアクティブなもの動的なものより静観的なものにひかれるだろう。アクティブな自体の延長として老人になってもアクティブなものになるのもさけられない。でもアクティブな動的な騒々しい世界から引退して内面を見つめる静観的になる。逆にそういう傾向が退職者などに広がり隠居文化が再興するかもしれない、だからスキ-だとかアクティブなものは廃れる、家庭菜園などはアクティブなものと静観的なものがマッチしているから退職者に人気があるのだ。

西欧化して過度にアメリカ化した物質化した文化からメンタルなものを求めてゆく、というとき茶の湯は老人に向いている。茶の湯は静寂とか人間の関係さの親密を求めるとか、物質を追求してきたものとは何か違うメンタル的要素が大きいのである。もちろん自分は茶室にまねかれて茶を一回も飲んだこともない、全く茶の湯の専門的なことを知らない、でも茶の湯と俳句であれ短歌であれ芸術と結びついているし親和性が高い、茶の湯は日本的文化を象徴したものである。茶の湯を究めれば相当奥深いものがある。それは道具にこるとか建物にこるのとも違う、メンタル的要素が大きいのである。茶の湯は本当は選ばれたものにしか向いていないものかもしれない、大衆的にはなりえない、だからこそ文化でありえるということもある。大衆化したものは文化ではない、娯楽なのだ。気晴らしなのだ。そういうものが時代を席巻したのが現代でもあった。文化は作り出さなかった。文化を作り出すことはやはり歴史的に作り出されたものでありその継続の中で新たにされるのである。茶の湯の精神は「静けさや岩にしみいる蝉の声」である。座主は岩であり客の声を静かに聞くのである。この句が永遠の名句となっているのはもはやそうした静寂の空間が消失したから作れないということにあったのだ。山寺に行ってもそういうものを感じないのである。というのはその時代の環境が作らしめたものだから同じ場所に行ってもそれがここで作られたということを感じないのだ。別の異次元の世界で作られたとしかいいようがない深みある句なのである。

ともかく禍に悩まされ翻弄され続けてきたのが自分だった。でも本当に禍は消えたのか、そうともいえないだろう、今日は梅も咲いていたし春だった。召使い、お手伝いさんとかで淋しくなった家の補いができる。結局人間の代わりは人間しかないのだ。ただその人間もいろいろである。召使とかお手伝いさんなどヘルパ-など誰でもできるものともいえない、洗濯とか掃除とか料理とかあるが性格的なものも評価の内に入る、総合的に理想的な召使とかお手伝いさんとかヘルパ-になれる人はいない、料理もうまくて他にもいろいろ気がついて性格もいいなどという人はいないのである。工場で流れ作業で部品を作っている人とかレジの仕事などはあまり人間を総合的に評価したりしない、ロボットのように扱われている。ところが召使、ヘルパ-、お手伝いさんとかは総合的に評価される、総合人間であることが要求されている仕事なのである。
こんなもの下働きの仕事にすぎないとはいえない、極めて人間的な仕事である。だから「執事たちの足音」というプログにはつくづく感心したのである。

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