2010年03月10日

管 茶山「冬夜読書」の漢詩を読んで・・・

管 茶山「冬夜読書」の漢詩を読んで・


石川忠久著「日本人の漢詩」(大修館書店'03年2月20日発行)から抜粋
管 茶山(かんちゃざん)の七言絶句「冬夜読書」


雪擁山堂樹影深 (雪は山堂を擁して樹影深し)

檐鈴不動夜沈沈 (檐鈴動かず 夜沈沈)

閑収乱帙思疑義 (閑(しず)かに乱帙(らんちつ)を収めて疑義を思う)

一穂青燈万古心 (一穂(いっすい)の青燈 万古の心) 

 雪が山中の庵を囲み、外の木々の影もこんもりと見える
 

軒端(のきば)の鈴もひっそりと音を立てず、冬の夜はしんしんとふけゆく

 取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると

 じっと燃える青い燈火を通して、先哲の心が伝わってくる

この漢詩が福島県の県立高校の入試に出ていた。 高校入試にしてはむずかしいだろう。なぜならこの内容を自分は老人になって理解できるものである。これが今の季節にぴったりなのだ。今年は寒い、昨夜も雪であり今日も外の風は冷たい、現実に雪がとけずに残っている。
これと同じことを昨夜は夜遅くまで起きて経験した。どういうわけか自分が一番読んだ本は聖書ではない、ショ-ペンハウエルの本を一番愛読した。おそらく気質的にあっていたのだろう。他にも確かに古典を読んだが若いときは理解できないことが多かった。でもわからなくても古典を読むことには価値があるし家に良書をおくこと自体、価値あることなのだ。何かの折りに手にとることがあるからだ。「じっと燃える青い燈火を通して、先哲の心が伝わってくる」夜の暗闇の中の灯火に先哲の言葉が伝わってくるというのは今でもそうである。江戸時代の闇はさらに深いから余計そうなる。「取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると」というのも部屋に本を重ね散らかしている、その一冊一冊をランダムに読んでみる、すると記憶が蘇りこんなことが書いてあったのかと見直すことがよくある。本の読み方としてランダムにペ-ジを読むことも読書の方法なのである。これは相当読書して老人になったとき特にそうなのである。やはり読書も積み重ねであり努力なのである。いい本を古典をある程度若い内読んでいないとあとで読めなくなる。

そして人間はいかに本を読むにしてもその本が限られているかわかる。今や知識は江戸時代の億倍になっている。だからつまらない情報、本に映像に浪費されること多い。もう映像が主流となるとき読書はしない、本は読まない時代ともなっている。映像を見て本を読んで音楽を聴いて・・・・そんなに人間いろいろなことを消化できないのだ。情報過剰化の世界で何を読んでいいか誰に習うべきなのかさえわからない、本も無数に出てくるし情報も毎日のようにあふれだしてくる。そういう時代に的をしぼって読むということも大事になる。ただその的をしぼることがむずかしい。結局老年になって読書の総決算が生じてくる。あなたが何を読んだのか?それが問われる。漫画ばかり読んでいたらあなたが老年で゛ふりかえるのは漫画である。老人になるとあらゆることの総決算が起きてくるのだ。読書というけど人間が吸収できる知識はほんのわずかである。青年時代はそんなことは思わない、時間はたっぷりあるし本なんていくらでも読めると思っている。実際は遂には本すらわずかしか読めないし印象に残るものもわずかなのである。そしていかに人間は多くのことを知らないか理解していないか老人になっても知るだろう。


この漢詩にしても有名だから普通文学をたしなむ人なら知っているはずである。ところが自分は知らなかった。基本的に知っているべきものを知らないことが多い、それは教養がないということなのだ。江戸時代の人間は現代のような膨大な知識とか技術とかの世界ではない、極めて人間的世界に生きていた。例えば春の雪の俳句で書いたけど歩くということが江戸時代では普通である。今は歩くことがない、だから歩道を雪がふりぬれて消えてゆく、歩道だからそう感じる。雪の中を歩く姿に情緒があふれている。今は車が走るだけであり人の歩く姿が見えないし歩いていても車が絶え間なく行き来しているから情緒が消されるのである。こうして人間の情が破壊されるているのだ。キレル人間になるのも車社会が影響しているのだ。人間と人間が相対することがないからである。歩くということなくなったということ自体そのことを物語っている。もはや商店街を歩くということがないのである。シャッ-タ-通りとなり歩く姿がないのだ。

今本の時代からインタ-ネットの時代となったとき昔からの読書という感覚も消えてゆく、キ-ワ-ドで調べることが 「取り散らかした書物をしずかに片付けつつ、疑問の点を考えると」はと通じている。キ-ワ-ドから共通なものがクロ-ズアップされるからだ。

管茶山という人も知らなかったけど結構有名な人だった。江戸時代の漢詩界では有名だった。江戸時代の方が情操的な面の教育では恵まれていた。先生でもそれほどの知識は必要がない、塾の先生でも人柄がいい人が選ばれていたということでもわかる。今は知識優先であり英語なら英語を外国人を相手にしゃべれるくらいだと最高の先生とされるし他でも同じである。人格など関係ないのである。学校自体受験勉強が主であり情操的な教育が最初から全くない、志の教育もない、江戸時代は最初に志の教育、武士とはいかにあるべきとか人間とはいかにあるべきとかを知識ではなく日頃の生活から教えたのである。これは戦前までもそういうところがあった。国家主義的教育でもそういうところがあった。今は全くない、団塊の世代からでも受験勉強であり知識の競争で勝つことだけを他者をだしぬくことだけを教えられた。一点でも点数を稼ぎいい大学に入りいい会社に入ることこれしか何も勉強の目標などないのだ。知識が膨大となり知識優先となったのである。

人間はやはり天才でない限り教育は大事である。凡才でもそれなりの教育するとそれなりのものになることはある。自分はいい教育はされなかったけどその後自己教育したとなる。現代では学校とかその他社会でまともに教育されるところなどない、結局自己教育しか方法がないのだ。でもどうしたって若いときは自己教育はむずかしい、回りの影響を過度に受けやすいのだ。それでカルト宗教団体に入ったりして青春を浪費する、そもそもそういう場所しか教育の場がなくなったということもいかに今の社会が異常か示しているのだ。だから受験が人生のすべてだと思わされて暗記とかの勉強に追いまくられ勉強嫌いになる。でも教育は知識の前に人間とはどうあるべきかとが問題になる。それが全くない一点の点数を稼ぐことしかないのだ。それが将来のすべてを決めると思わされている。日本にはすでに団塊の世代から教育はない、団塊の世代を今の若者は責めるけどそうしたのは団塊の世代ではない、受験勉強を強いたのはその前の戦争に負けて全く方向転換した戦前戦中世代であり団塊の世代はその方針に従っただけなのである。

江戸時代の魅力(江馬細香の漢詩から)
http://www.musubu.jp/hyouronedokanshi.htm

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