

南相馬市鹿島区町内の墓所の宝永の碑
光明真言を唱えつつ大師堂に向かいます。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら はらばりたや うん」
(移動のとき光明真言を唱えるのは有縁無縁の霊魂を供養するため)
空海の密教の祈りの塔だった。これは随分立派な塔だと思った。これが自分の墓のある場所にあったことを知らなかった。あそこの墓地は入り組んでいて奥の方にあったからわからなかったのだ。街のなかにあるからあそこは新しい墓地だと思った。ほとんどが明治以降の墓であり江戸時代の墓がなかったからだ。でもこれは墓ではない、もともとここは墓所はなかった。神宮寺跡ととあるから寺があったところであり墓地ではない、その寺がなくなりそのあとが明治以降墓地になったのかもしれない、宝永四年は1707年だからこれは古い、一番古い碑は葛尾村の落合の元禄の碑だった。資料ではなく実際に見た碑ではそうだった。たいがいは天保(1830)以降の碑が多いのだ。だから元禄-宝永となると300年前となり古いとなる。墓でも碑でもその場所が大事でありその場所に立つことである。ともかく300年前にあの場所に神宮寺がありこの碑が建てられたのだ。鹿島御子神社があるからその関係で神宮寺跡となっているのか、ここに寺がありこの碑が建てられた。ここに小山田とかの武家に連なる姓の墓がある。ではこの小山田はもともと小山田の地からこの鹿島村に移住したのだろうか?栃窪(栃久保)という姓なども相馬藩内で他に移っている。村の名前が移動している。上高平の五輪塔があった墓地もそうである。そこに岡和田氏の墓があった。鹿島区に岡和田という村がある。そこから下高平に移動した末裔なのかとなる。
鹿島村の中心は今の街道沿い、通りではない、駅から少し離れた田中城があったところである。田中城が中心地だった。そこの回りは湿地帯だったから天然の要塞となっていたのだ。つくづくあそこが湿地帯だったということが想像できなかった。あそこに立ったのは最近であり今日自分の家の墓地があるところにこの碑を発見した。郷土史は灯台下暮らしであり一番身近な所を知らないのである。今や外国に詳しい人は相当いるが自分の暮らしている足元を知らない人が多くなっているのだ。湿地帯が広がっていたということはまだ開拓すべき余地ある土地が広がっていたのである。だから橲原田という地名が鹿島町誌に記されている。橲原村から開拓に来て移住した人がいたからとしか考えられない、鹿島村は今のような街道沿いの村にはなっていない、ただ原町と違って鉄道が通ってもその近くが街道でありそんなに街も拡大化しないから昔と変わらない面がある。ただ田中城が中心地だったということはわかりにくい。田中城から陽山寺が建立されたことでもわかる。この位置関係が歴史にとっては大事だから必ず実地にその場を踏む必要があるのだ。自分がそれをしていなかったからこそ言える。つまり田中城は一番身近な存在であり歴史の跡だったのである。
墓地を調べる場合、江戸時代の墓とか碑がある場合はその墓地は古い、古い形体の五輪塔があるのも古い。五輪塔に名前がないのが多いのは空風火水地・・・という仏塔の形式をひきついでいるから名前がないのうもしれない、その後武士が台頭して権力を持つと菩提寺が武士を供養するものになった。だから武士は名前を誇らしげに刻み残している。その前に南無阿弥陀仏とか真宗では今でも名前は墓に記さない、武士が権力をもったとき名前が刻まれるようになった。江戸時代の庶民は墓をもっていなかった。でもわずかに墓が残っているのはやはり墓を造る財力をもてるようなったからだ。だからオレも記念に墓を造るかと個人で墓を作り次に夫婦墓が基本であった。それは明治時代に受け継がれた。夫婦墓が多いのはそのためである。一家の墓というのは明治以降に作られたのである。これは国の政策、押しつけがあった。家中心の社会を作ろうとしたからである。ただ庶民でも立派な墓を造りたいというのはわかる。墓を造れたのは武士であり庶民は作れなかった。戒名も武士には位が高いものがつけられた。・・院というのはそうである。それをまねて庶民も高い戒名代を払い院をつけてもらうとかになった。寺とか僧侶はそもそも武士の菩提を弔う場所であり庶民を弔う場所となっていなかったのだ。
江戸時代は明確な階級社会だったのである。鎌倉時代から五輪塔などが作られそれが個人の墓となった。それまでは仏塔形式であり個人的なものでも墓はなかった。だから僧侶が武士を祀っているようになっているのは歴史的に見たら変なのである。むしろ墓がない仏塔形式の方が先にありその時は個人的な墓はなかった。死んだら墓に固執しない、真宗などではそうである。だからこそ真宗では死体を焼くことになった。相馬でも越中から真宗系統の移民が大量に移住したから死体を焼く習慣ができた。ノバというのは裸のことでありこれは越中から伝わった言葉である。河原でノバ、ノバというとき裸の子供のことだった。でももともとの意味は野庭であり越中から伝わった言葉だったのである。
この宝永の碑が建てられたのは相馬叙胤(元禄14.2〜宝永6.6-1701〜1709)、六代目の時代であり相馬藩初代から百年くらいたっている。その頃にこの碑が建てられたのである。もちろん鹿島宿があり街道を行き来していた。
いづれにしろ今生きている時代もすでに歴史になる。別に武家の歴史だけではない庶民の歴史も同じなのだ。団塊の世代はすでに歴史になりつつある。高度成長時代も過去の歴史となる。江戸時代も歴史だが現実も常に変遷して歴史になってゆく、だから歴史は膨大であり江戸時代だけではない、今も刻々と変わり歴史となる。だから歴史は個々人によって関心が違ってくる。実際にその足元に膨大な歴史が常に埋もれているのだ。すでに最近死んだ我が身内も歴史になってしまったから余計に感じてしまった。
田中城その跡あわれ我が住みし近くに知らじ春の日暮れぬ
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