2010年03月20日

南相馬市(原町市)で生きた)大正生まれのばあちゃん


南相馬市(原町市)で生きた)大正生まれのばあちゃん


大正生まれのばあちゃんは
関東大震災の揺れを経験した

原町ににょきにょきと雲をつくような無線塔
コンクリ-ト作りでアメリカに無線で助けを求めた
大正生まれのばあちゃんは
製糸工場(原紡)で十年働いた
女工哀史の語られる時代だった
東京からは蒸気機関車が原町にご-ご-と唸りをたててやってきた
燃料は石炭であり常磐炭鉱は東京に石炭を運んだ
最初は小名浜から船で次は常磐線で運んだ
石炭はいたるところで掘られた
鹿島の小池でも石炭掘りした大正生まれがいた
でももう死んでいなくなった
石炭は今の石油と同じだったのだ
原町機関区から木材や資材が東京に運ばれた
原町は一早く近代化した街
その象徴が東洋一の無線塔だった
原町の人は天をつくような無線塔を毎日見上げて暮らしていた
大正生まれのばあちゃんは戦争も経験した
農産(相馬農業学校))学校に爆撃があった
すぐ近くだから飛行機が家の上を通った
飛行機通るとばぐっと防空壕の蓋があいたとか
気丈夫な父親も飛行機に負けてたまるかと逃げなかったが
遂に防空壕に怖くて逃げた
農産学校は爆撃で燃えた
はるかに仙台空襲で空が真っ赤になりここからも見えた

雲雀が原には飛行場もあり飛行機も飛んだ!
大正生まれのばあちゃんは戦後まもなくの食料難も経験した
だか今でも庭に花より豆を植えているのか
戦後は丸三製糸工場ができてそこで弟は働いた
今もその煙が街なかにふきだしている
戦後60年もまたいろいろあった
みんな様々体験をした
戦後60年はまた長い
もう百歳もまじがになっいる
一人の息子は交通事故で死に
身内の一人は最後は認知症で死んだ
昭和の歴史も長かった
昭和天皇はすでに死んで平成の時代
大正生まれのばあちゃんはすでに90過ぎた
大正生まれのばあちゃんはそれでも元気な人が多い
かくしゃくと背も曲がらずに歩いている人もいる
しかしさすがに大正生まれの人は消えてゆく・・・
その刻んだ歴史は壮絶なものだった・・・・
だから今や大正生まれは貴重であり老人でも尊敬される



この詩のように南相馬市の前の原町市はまさに製糸工場とか無線塔とか丸三製紙とか原町機関区としての国鉄の拠点としていち早く近代化した街だった。だからこそ南相馬市という名前がそぐわなかったのである。現実にこうして原町市で生きた人々がいてそれが今や歴史となっているからだ。つまり大正生まれはすでに今や百年一世紀がたつのである。一世紀の近代化の歴史として原町市は作られていたのである。その百年を南相馬市という合併後の名前で消してしまったということがあるのだ。一世紀となれば相当に重い歴史なのである。特に明治以降は変化が激しいからそれだけ余計に重みがあるのだ。ともかく団塊の世代だってすでに高度成長は昔となりそんな恵まれた時代があったのかと回想する時代になっている。ただ大正生まれとかからすると団塊の世代は相当に恵まれていた。でも団塊の世代でも格差があり全部が全部ではない、中卒で苦労して退職しても退職金ももらえない、貯金もない人も結構いるのである。60年の歳月これもそれぞれの歴史だった。60年+30年の歴史となると一世紀でありこれだけのめまぐるしい変化を生きた時代はなかったのである。
posted by 老鶯 at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降
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