2010年04月04日

京都の桜は満開(みちのくより偲ぶ桜の短歌)

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京都の桜は満開(みちのくより偲ぶ桜の短歌)

行き交いぬ京都の道々花の影

橋いくつ花に暮れるや京都かな

燕来る橋のいくつや京都かな

築地塀枝垂桜の花の影京都の女や歩み行くかな

詩仙堂その真昼間に赤々と散れる椿に花そ散るかも

清水の坂上り下りや夕暮れに鐘の鳴るかな春深まりぬ

枝垂桜その色濃くも交じりつつ御池に写し御所の暮れにき

平安京古の跡埋もれしや京都の街歩む春かな

平安京その日はいかに錦なす交わる人や春の夢かな

天皇の代を重ねし京都かな春爛漫の栄還らむ

天皇の参詣したる御寺かな菊の御紋に春の雨ふる


春の日に京都をそぞろ我が歩み昔の人と逢うも良しかな

八坂なる枝垂桜のその色の夕べに深め夜も人よる

京都より大津をめぐり浪の音聞きつ春の夕暮迫る

京都なれ春の日影の移ろいて塔の影さし日がな歩みぬ

生きてまた訪ぬることあれみちのくに京都は遠し花は咲くとも

春の日に京都を巡るいつしかに時は過ぎにき年も古りにき

いつしかに京都は遠しみちのくに花咲くを待つ年も古りにき

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春となれば必ず旅に出ていた。東から西、西から東と旅していた。遂に稚内でも六月に桜を見た。それだげ桜前線は時間的にも長いのが日本なのである。京都の桜は今が満開である。それをサイトで見た、やはり京都の桜は見事である。でもその日が遠くなり記憶も遠くなる。でも確かに京都を気のむくままにゆっくりと歩いていた。そういう日があったこと自体恵まれていた。人間の時間は実際は限られていたのだ。その中で奴隷のごとく働くことに追われているのが普通である。それが全くそういうことがなく旅の中にありつづけたことであった。今ふりかえるとその時間は貴重だった。今また旅するということがかなりむずかしくなっているからだ。旅というのは時間が制限されるとだめである。旅というのは道が二つに別れていたらどっちに行こうかと立ち止まり気の向くままに旅することなのだ。あらかじめ決められた軌道の中を行くのが旅ではなかった。でもそれだけの旅を今やできない、みんな決められた道、軌道の中を決められた計画された通りに行っているだけなのである。そんな気ままな旅をししていたらまずまともな職にもつけなくなる。今の時代そんな人がフリ-タ-やら何やら増えてきたのが不思議である。人間の生きる時間は限られている、すると労働の奴隷として生きたとはいえ、それが人生なのだ。終わってみればそれがどうのこうのといってもそれが人生だったとなる。もう戻ることはできない、もっと自由に生きていれば良かったとかもっと旅していれば良かったとかいっても時間がなくなっていたのだ。もちろん退職して必死に旅する人もいるから終わったわけではない、現実退職して世界を放浪している人もいるが結構辛いことになる。

ともかく今京都は桜が満開である。これをインタ-ネットで見るのも今の時代である。ここは一分咲きにもなっていないから相当差がある。そこがやはり日本の季節感なのである。みちのくは遅いしまたみちのくのなかでも岩手とか青森はもっと遅い、この時間差が桜前線が極めて日本的季節を感じる。京都は新幹線ですぐじゃないかという時代でもやはり今となると遠いことがわかった。どうしてもゆっくり見るとしたら一週間とかかるのだ。その時間をとることがむずかしいのである。もちろん金もかかる。今ふりかえると旅は金もかかるし結構手間がかかるものなのだ。それで若者はめんどうだと金もかかると旅すらしないなまけものになってしまった。それもあとで後悔するようになる。何の思い出も残らなかったとかなり老後は索漠としたものとなる。

人間の一生は限られているから何しても限られている。その間に記憶したものが何なのか老人になりわかる。記憶はみんな消えるわけではない、やはり貯えられていたのだ。金も貯えられたが、金で思い出は貯えられない、一億残っていても貯えていても金自体にはこれまで生きてきた記憶は貯えられていない、それは脳の中に貯えられているのだ。金は確かに大きな力をもっている。老人でも金だけが頼りだというのもわかる。でも過去の過ぎ去った時間を金でとりもどすことができない、もちろん必死で退職後旅する人はいる、でも結構大変な労苦になる。旅することは結構な労働でもあったのだ。青春時代だったら金というのはもっと大きな力であり有効なものである。例え無駄なようでも留学したり何か金があれば有意義なことができる。老人はなかなかもう金を活かすことがむずかしくなる。健康のために病気のために介護のために金を使うだけとかなる。一億円貯えればそれだけの価値を残したかというとそうではない、青春も時間も過ぎ去り何を生きたのかが問われる。何が記憶されたか問われるのだ。プラスであれマイナスであれ必ず何かが記憶されているのが人生なのだ。その記録されたものが人生だったとなるのだ。いくら金があっても過去の記憶を買えない、過ぎ去ってしまっているからだ。江戸時代に戻れないと同じなのである。

春はすでに六十回以上経験していてもやはり違っている。同じ春はないのである。春はやはり未来に向かっている。春は何であれ前進の季節なのである。春はやはり一番気持ちいい季節なのである。そして遂に何度の春を経験して春も終わりかとなる。もはや春を味わえない、そうなる日も近いのである。人間の与えられた時間は限られているからそうなるのだ。西行のように春に死ぬことはやはり人生を全うしたからだろう。冬に死ぬのは何か寒々しい最期なのである。春に死ぬのはやはり気持ちよく死ぬということである。春の盛りにこの世をお別れすることは幸せだったとなる。人間の死を見たら無惨な死が多すぎるからそのように死ぬ人は本当にまれだろう。最期の死だけはどんな地位ある人も金ある人も無惨なのである。誰も最期気持ちよく死ねないものかとつくづく思っている。しかしそう死ねる人はほとんどいない、みんなのたうちまわり死んでゆく・・・それは生を全うしていない、事故であれ病気であれ自殺であれみんな悲惨そのものである。生が全うされる人はまれなのだ。 だからこそ西行の春死なむが人間の理想となっているのだ。

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