2010年04月07日

九州から大阪城へ(春の短歌十首)

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九州-四国-瀬戸内海


九州から大阪城へ(春の短歌十首)


春の風吹きそよぐかな峠越えまたはるかにも旅に行きなむ

その時千里の道を旅をして南の海ゆ春の風吹く

伊万里焼き異国へ渡りその港春の風吹き夕暮れにけり

燃ゆるごと春の夕陽に映えにつつ開門岳を船に離りぬ

春の陽を朝に仰ぎ船は入る難波の港や栄し国かな

淡路にも城はありにき小さきや波よせひびき春の日没りぬ

大阪城海に通じて春の日や外国の人を謁見するかな

大坂城夕陽に映えつなお花散りやまじ人も絶えじも

大坂城大いなる石運びくる春の日さしてここに残りぬ

大坂城その城内に一品の茶器を手にとり春の日暮れぬ

大阪城その内広し春陽さし奥へと巡り花の散るかな

城の中花の影日がな奥座敷姫華やかに物語かな

鹿児島から船で薩摩を去った。開聞岳が船から見えた。船の上で春の陽が上り難波の港へ入り大坂城へ行く・・・九州の海は東北の太平洋とは違っている。具体的に外国と結びついている海だった。伊万里焼ももともと有田焼きが伊万里から輸出していたからである。タイとかベトナムに埋もれていた伊万里焼が発見されたりオランダなどヨ-ロッパにも輸出された。瀬戸内海から九州の海は長崎でも福岡でも確実に外国と結びついてる海なのである。
大坂城はやはり一大歴史絵巻を成した秀吉の城でありこういう豪壮な城とか歴史は東北にはない、春の夕陽が映えて桜が絶え間なく散っていた情景は今でも忘れられない、 大坂城は大阪湾に通じていて船が出入りしていた。ただ今になると都会の城はビルの谷間に埋もれているから当時の情景と余りに違っているからどうしも想像力で当時の世界の中に入る必要があるのだ。城が今だとビルと比べると余りにも模型のように小さく見えてしまうのである。城を見る当時の感覚は全く違っていた。なぜなら二階建ての家もまともにない平屋だけの市街に高く聳えているのが城だったからであり天守閣も街を一望できるものでありそこから眺めることはその土地を支配することだった。

秀吉の時代は安土桃山文化が華開いた時期でありその余波が伊達政宗を通じてみちのく仙台にもたらされた。瑞巌寺の金碧障壁画もその一端としてあった。その規模は余りに小さかった。秀吉の安土桃山文化は黄金の茶室のように豪壮そのものだった。醍醐寺の茶会とかも豪壮絢爛たるものでありそれで侘、寂を主張した利休と衝突したのである。それは余りにも異なる価値観から必然的にそうなった。東北こそ侘、寂にふさわしい地でありそれで芭蕉の奥の細道が生まれたのである。黄金に価値を置くのは外国でもスペインとかインカ征服で黄金文化が華開いたことは共通しているが侘、寂の世界は日本独特のものである。いづれにしろ大坂城の桜は忘れがたいものとなっているのだ。歴史でもその中に生きていた人は常にその城の美を見ていたとは限らない、権力の象徴だからかなり圧迫されたものとして見ていた。歴史はその中に生きている人にとっては常にいいものと限らない、要するにこうして回想するときは歴史も
ただ美として鑑賞できるのだ。その時代にその中で生きている人にはそうした余裕はない、死に物狂いで生きているのは今も同じなのである。

大坂城の桜については前も書いたけど短歌でも俳句でも連作として活きるものがある。十首を一つのものとして創作している。前にも作ったものがあるけど十首が一つだからそこで一首を別々にするより活きたものとなる。一つ一つをばらばらに別々に読まない、十首を一つの作品として読むのが連作なのである。短歌ではそういう連作を発表しつづけてきた。俳句はなかなかそうはできない、短歌はやはり長いから表現の幅が広がっているのだ。何か自分の石を伝えようとすることができる。俳句は写生とかで表現の幅が現代では短すぎるものとなってしまった。かといって詩になると冗長になるのが日本の詩であり短歌も短いが十首並べるとそれなり長い連作として提示できるのだ。
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