2010年04月19日

鶯と水仙

uguisakananew11.jpg

鶯の声聞く魚や水底に

碑新し御霊眠るや花の影

なお生きて水仙見るや繊き月

水仙や雪にしおれてまた咲きぬ

春寒し母なお生きて繊き月


今年は春寒いというより春冷える、今日も結構寒い、風流的寒さとは違う、冬戻るになっているが今年の季節である。寒いから外に出れないのだ。昨日は原町の雲雀が原の陣が崎の桜が良かった。墓全体が桜におおわれ墓も桜におおわれている。橋本の墓所には何か花がないからものたりない、墓があれだけ桜におおわれているのもめずらしい。あそこのは墓地は新しいものだろう。桜の時期にあそこは墓参りしたくなる。花見にもいいところだった。桜は南相馬市立病院の桜も見物である。桜はいたるところにあるし新名所もできるのだ。

水仙も今年は雪にしおれたり本当に寒い時咲いた。水仙にはふさわしかった。今日は繊い月が出ていた。今年の春は花見に浮かれるという気分になれない、花見に行くという気にもなれない、それだけ寒いのである。
鶯の句は想像で作った句である。写生とは違う句である。写生もあきるときがある。


郭公(ほととぎす)声横たふや水の上 芭蕉

 初夏の隅田川、ほととぎすがするどい声を残して飛び去った後も、その声は水の上にゆたかに広がりまるで横たわってでもいるかのように波にたゆたうことだ・・・・


この句の類想俳句になる。こういう感じは江戸時代でしか浮かんでこないのではないか、そこにはやはり江戸時代の悠長な時間があるのだ。墨田川も今の濁った川とは違っているし川幅も違うし堤防もない大きくゆったりと流れていたしその回りはまだ田んぼであり田舎の風景なのである。俳句とか短歌でもその時代でしか作れないものがかなりある。時鳥の声が水に反射ている感覚である。これだとあまり濁った水では浮かばないイメ-ジだし回りがビルだけの世界ではもうこうした句は江戸時代に帰りイメ-ジの世界で再現する他なくなっているのだ。


尾瀬には3回しか行っていない、3回行けばいいじゃないかとなるが8回行ったとう言う人もいるしやはり尾瀬沼などは本当に澄んでいるからこの句にふさわしい。自然の沼は北海道にあった。そこは本当に自然そのものであり人工的なものが加えられていない、尾瀬にも人工的なものがないから素晴らしいのだ。
まあ、澄んだ神秘的な沼や湖の底で鶯の声を聞いて外には出たくないというのが心境である。いろいろ相談を受けて俗世の問題は因縁がからまっていて解決できない、疲れるのである。

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