2010年04月24日

春の花時計(遊びの必要)

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春の花時計(遊びの必要)

日永きや子供の遊ぶ花時計

南相馬市の道の駅に桜が咲く公園と無線塔跡に花時計を作っていた。あの辺は桜が咲いている。市立病院にも咲いている。寒くて花見という感じがしないが今日は雨の後晴れた。道の駅辺りまで今は電動自転車で散策範囲である。道の駅だとコンビニと違って休めるからいいのだ。図書館のある駅前通りはなかなかいかない、買い物していて時間がなくなってしまうのである。最近はイオンには行っている。あそこに行って気づいたのが川の流れの上流になっていたことである。あれも買い物に行って気づいたのである。ともかく春から冬に逆戻りで花見にならない、すでに花も散りはじめた。あれだけ整備されるとやはり気持ちいいとなる。原町とか相馬はまだそうした施設や建物が明るさを作っているのだ。鹿島区とか小高区にはない、浪江にも国道沿いにはない、道の駅はやはり人の集る場所だから活気がでてくる。ただあそこも赤字だし図書館経営も赤字だしとなる。収益をあげるとするとどこも大変なのである。 ただ原町区にはやはりいろいろなものがあるからいいとなる。

芸術は遊びである。純粋な遊びである。これでもうけてやろうとかする前に生活の余剰としての遊びなのである。子供は純粋に遊ぶ、何かもうけようとかすることはない、遊びで不思議なのは
チンパジ−の実験で彼らにパズルを与えると大喜びしてそれを得ることを待ち、要求する。彼らにとってバズルを解くこと自体が楽しみなのである。しかしある時パズルを解くと食べ物を与えるようにするとチンパンジ−はしだいにパズルそれ自体を楽しむより食べ物を得るためにパズルするようになる。やがてパズルだけを与えて食べ物を与えなくなるとチンパンジ−はパズルへの興味をなくしてしまう。(あなたの隣の狂気−町沢静夫)

動物と人間の相違(麻薬犬の訓練)−遊びの必要
http://www.musubu.sblo.jp/article/1128249.html

これは人間にも言えないか?大人になれば子供のように純粋に遊べない、必ず利益とかが関係してくる。大人同士も利益ぬきでは遊ばない、必ず利益が関係しているのだ。芸術も遊びの要素が大きいがそれを売ってもうけようとするとき遊びは不純なものになる。遊ぶという言葉自体が神が遊ぶことでありあそばしますとかなるから遊ぶことは神聖なこと神に通じることでもあった。深刻な生きる死ぬかの世界に生きているが遊びが人間にとって不可欠なものなのだ。遊びは人間を豊にする。自分の一生は遊びだった。それ故にその遊びの記憶が心を豊かにする。


そして芸術で不思議なのは遊びも訓練が熟練しないとうまく遊べないのである。将棋にしても将棋を本当に遊ぶには相当な努力が必要になってくるのだ。例えば自分が絵画もどきのものをパソコンで遊び作って出しているがこれもソフトを使いこなすコツを覚える必要があるのだ。
切り貼り絵ではあるがこれでも遊べるのである。あくまでも遊びとしてやってきたのでありこれで利益になることを目指していない、こんな遊びは商業主義の出版の世界などとかかわると汚されるだろう。 チンパジ−の実験と同じになってしまうのである。もちろんそんなものは金にならないというのもそうだけどその前に純粋な遊びとして芸術もある。実用的なものもあるが人間が最初から装飾に凝っていたのは遊び心、芸術心が備わっていたためである。


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