2010年05月14日

岩手山短歌十首


岩手山十首

 

岩手山常に迫りて北上の流れ早しも夏は来たりぬ

夏の日や岩手山に我が登り火口に立ちぬ若き時かな

岩手山濃霧の覆う岩盤にタカネツリガネの青き花咲く

岩手山荒々しくも聳ゆかも神の手になる彫塑のごとしも

岩手山轟くごとく聳えけり一つの峰の荒々しかも

岩手山隙もなきしに張りつめて造形されぬ厳美の極み

小岩井や枯木に風の唸りつつ岩手山の聳え厳しき

岩手山荒々しくもよせつけぬ急峻にしてはや冬に入る

岩手山雪の覆いて小岩井も雪に埋もれて朝望むかな

一面はただみな雪に埋もれけり岩手山の純白に映ゆ



山は見て登れば一番いい、岩手山には確かに二回くらい登ったから登った山として記憶している。山は本当に早く冬がくる、紅葉だと思ったら厳しい広い斜面が雪におおわれてしまった。その時山の厳しさと美を体感した。山岳の美は体感しないと実感できない、その時確かに実感したのだ。実際に登ったのだから体で実感したのだ。登山の魅力は山の本当の姿を体感することである。遠くからながめても山の美は際立つのだが実際に上るとまたさらに山の厳しさを実感する。ただ体力なくて山登りはやめた。山は上るのも厳しい、山はそんなに登ったとはいえない、アルプスにも登っていないし、富士山には一回登っただけであり富士山というのは良くみていないのだ。山はやはり身近にいつも常に見ていると山と人間が一体化する。岩手山のいい点は盛岡のような街からでも見えて常に迫ってくることなのだ。そして山は連峰より独立の峰がいい、岩手山は彫塑的であり厳しい山容がいつも迫ってくるからそれが何らか精神にも影響する。この辺ではそうした独立の高い山がないから平凡なのである。阿武隈山地は山ではない、阿武隈高原なのである。会津には2000メ-トル級の山があるが阿武隈山地にはない、蔵王は確かに高いにしろ独立峰ではない、やはり富士山とか岩手山とかは山らしい山なのである。


尾瀬の燧山も若々しい溶岩色の迫真的に迫る山である。あの山をまた見るには結構大変である。高い山はそんなに見れるものではない、上るとなるさらに今や大変である。ヒマラヤを見て残念だったのは3000メ-トルまで登って曇って見えなかったのである。あんなところにもう行けないのだからがっかりした。10月ころ行かないとなかなか見れないらしい。こんなに旅をしたにしろ人間はいろいろ見れるものではないと思った。

山でもそうだが写真を見ただけで感動するということはないだろう。その大きさと立体感を感じることはむずかしい。山は遠くから見て実際に登ればその山のことを実感する。しかしこの両方をすることはむずかしい。山はともかく厳しい、厳美渓などとあるが正に厳美の世界なのだ。隙間だらけの軟弱な人間とは余りにも違っている。全然隙がない、厳しさでこりかたまっている。岩手山を登った時もさらに厳しさを感じた。 自然の美は厳しい、近くにある樹だって一つの石であれ樹であれ実際に隙がないのだ。ぴっちりと完全に治まっている。人間はだらだらと無駄が多くしまりがない、何かさも働いているものが有用な人間だと誇るが自然から比べると人間は働くことだって無駄が多すぎるのだ。人間が毎日こんなに働いているのに美が作り出せないのか?ただ醜悪なものしか作り出せないのか?そこに労働の意義はあるのかと疑問になる。


自然はそれらは労苦もせず、紡ぎもしないのに美がある。人間の労働はそんなに賛歌すべきものなのか常に疑問である。それほどに苦労して働いているのに現実世界は醜悪なものとなっている。もしその労苦の故に美が創造されるなら報われるだろう。それがないとしたら労働は報われない、東京は日本の労働の集結している所でも醜悪な場所となっていることがそれを示しているのだ。

 

短歌の連作で岩手山を現そうとしたが言葉だけでも自然の美は現しきれない、何か常に不満が残る。それだけ岩手山一つとっても人間が現す力を越えているからそうなっているのだ。

 

 

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