2010年06月04日

黒揚羽(国見山から飯館へ-2)

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何やらの草の実あまし夏の朝

滝壺に黒揚羽舞いひそむ魚

木漏れ日やトオスミかすか飛びにけり

飯館の広々として新緑に風の涼しくわたりそよぎぬ

飯館に日のなお暮れじ明るさや遠くに望む夏の峰かな

山藤のふさに垂れにき風そよぎ飯館の道長くつづけり


六号線のところに赤い実がなっていた。それがグミではない、グミは酸っぱいがあれは小さく甘い、それが何とも甘美だった。つまり無料で食べた味がなんともいえぬのだ。それも自然から得られたものだから格別だった。人の手からわたるものはうまくてもそこには常に代価が必要とされる。苦労して作ったものだからということでただで食べるわけにはいかない、そうだったとしてもなんか悪いなとか遊んで暮らすものは他人の労働から無料で食べるわけにはいかないとかなる。ところが自然の中にもしなっていた実だとしたら誰もとがめるものはいない、純粋な神からの賜物(たももの)となるから格別に甘美なものとなるのだ。エデンの園ではそうして純粋に神からの賜物として食料を得ていたのだろう。自然に生きるものの幸福は神からの賜物だげで暮らしているからである。一番甘美な食料はマナだったのである。人間が労働して栽培したものではない、神から純粋の賜物として与えられたものである。

 

高倉ダムから流れをさかのぼった所にある滝はたいしたものではない、あそこには魚もいないかもしれない、でもあそこは車が日に何台かしか通らない、涼しく風がそよいですぎてゆくだけである。そこにじっとしているだけで気持ちいい、そこには社会の喧噪は及ばない世界である。ただあそこまで行くのは結構大変だった。運動すると体に異常が出るようになった。登山して電動自転車でも乗れば体に答えた。でも自転車だと涼しい風とか感じるが車だと感じない、それでも暑い光をさえぎるから楽である。車を運転できる女性と結婚すればいいというのは確かにそうである。そうすれば遠くにも行けることになる。車はそれだけ便利なものなのである。でもどこの家でも車の事故にあっているからいやである。自分の場合は車の運転には向いていない、常によそ見しているし考えことしたりしているから事故にあいやすいから乗らないのだ。

飯館村が気持ちいいのは広々とした地域に家が隠れるように点在しているからである。道にしても車が通るのが少ないからいたるところ涼しい木陰をなしている。飯館村は静寂の度合いが違ってくる。原町より小高や鹿島が静寂があるがさらに町より飯館村は静寂の度合いが深まるのだ。飯館村に住んだらいろいろ不便でもその静寂の中で別な神秘的体験をするのではないだろうか?暮らしのことは別として深い自然の癒しがあそこにはある。ただきれいな水の流れがないことが残念である。前は一カ所山陰にあったが道になりなくなった。流れは寸断されてしまったから自然な流れではない、夏になるとやはりきれいな流れがあると癒されるのだ。会津の方にきれいな流れが多い、あれだけ高い山があるのだから当然だなる。ただ会津は地理的にわかりにくい地域なのだ。

やはり夏は涼しさを求める、本当の涼しさは自然にあり自然を離れたら本当の涼しさはなくなる、ク-ラ-も不自然なものであり飯館のような高原に棲めば全体が自然のク-ラ-になっているのだ。

 

 

posted by 老鶯 at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
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