悪い俳句の判断(写生が基準)
朴散華即ちしれぬ行方かな 川端茅舎
白という厚さをもって朴開く 富安風生
朴の花しばらくありて風渡る 高野素十
引用したサイト
http://homepage2.nifty.com/hallo-keiko/hou/hounohana.html
俳句を評価するのにも何を基準にするか問題になる。芸術の価値判断は非常にむずかしい。
俳句もむずかしい。この句を作った人たちが有名でも駄作は数限りなくあるのが俳句である。
俳句は短いから誰でも一応できる。だから無数の陳腐な俳句が生まれる。有名な人でも駄作はいくらでもある。俳句はやはり第二芸術的なものといえる面があるから余計にそうなのである。「朴散華即ちしれぬ行方かな」というときこれも作りすぎているのだ。行方もしれぬ・・とかいうときそうである。写生ではない、朴は結構大きい花だから散ったらどこに散ったかわかる。心のイメ-ジで作っているのだ。これはむしろ詩になる。詩だったらいくらでも心のおもむくままにイメ-ジで作れるからである。こうしたイメ-ジを拡大化することを俳句に適用することは写生でなくなる。それは詩だからそこから長い詩にした方がいいのだ。「白という厚さをもって朴開く 」というときも「白という厚さをもって・・・」これも作りすぎているのだ。わざとらしいのである。俳句に極力形容詞を使うべきではない、短いから感情的な形容詞を入れる余裕がないのだ。「朴の花しばらくありて風渡る」これも写生ではない、しばらくありて・・・というのは作っているのだ。 これもありふれてつまらない、俳句にはともかくつまらないものが多すぎるのだ。お前のもそうじゃないかといえばそうである。どうしても月並みのものが多くなるのが俳句なのだ。俳句の価値判断はやはり子規の写生論を根本にすべきである。それで全部が価値判断できないにしろある程度はそれで判断できる。
特殊な芸術にしているのは季語があり季語なしで成り立たないことと短いことにあったのだ。短詩でもない、極端に短いからこそ特殊なものとなった。だから写生が俳句の真髄になった。確かに写生俳句にもなんだこんなものが俳句とかいうものはある。これまた駄作も多いのは確かである。でも俳句の価値基準をどこにおくかとなるとやはり写生から見ればわかりやすいのである。俳句はともかく駄作のオンパレ-ドなのだ。名前がしれた人でも駄作が多すぎるのだ。この俳句を例にしていい俳句としている女性も俳句を知らないからそうなっている。インタ-ネットだからみんなそんなことをいちいちケチつけてもしょうがないともなるがみんな俳句をどうしてうまくなれるのかとかやはり俳句をうまくなりたくて志している人がいる。すると何らかの方法があるのかとなる。それは俳句の場合は写生になると書いてきたのである。写生の訓練をする必要があるのだ。デッサンをして絵を描くのと同じなのである。写生を追求してゆけは俳句の真髄に至る。芭蕉は内面的なものを俳句にしたが蕪村は画家だから写生になった。芭蕉のような俳句は非常に内面的で高度なものでありまねできないものだった。蕪村は写生だから子規も蕪村に習ったのである。
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