本の重さで家が傾いていると大工さんに指摘されて重い全集などの本を捨てた。本は本当に重過ぎるのだ。とくに厚い本があり重いから家が傾くほどになる。これは冗談ではない、本当に本を貯めるとそうなっていたのである。本は実際に集めても半分も読まない、全集なども読まない、調べるために買っておいても読まないのである。それで無駄が多いのだ。今はインタ-ネットで調べられるので本の役割も半減した。でも本にはインタ-ネットにはない豊富な情報が蓄積されていた。でもその本を利用することがめんどうなのである。本は調べることがめんどうなのである。どこに何が書いてあるか本が増えれば増えるほどわからなくなり同じ本を買っていたこともある。本を所有するには限度がある。あまりに多くの本を貯えても利用できない、ただツンドク、積まれているだけでありそれが家を傾けさせるのだ。
本に愛着があるのは確かだが知識愛と書物愛は違う、書物愛は書物そのものに愛着ができてしまう。本来は知識を得るのが本の役目だがモノとして本があるから本を手放せなくなるのだ。本は今まで必要不可欠なものだったが本は意外と調べるにも手間であり不便な面があることにインタ-ネットとか電子化されたとき感じるようになった。本自体を裁断して電子化する作業ができるようにもなった。本というのはインタ-ネットとと電子化で見直されるようになった。本は意外と調べるのには不便なのである。結局理想的には本もインタ-ネットのように自由に検索されるようになると新しい知的世界が開ける。それがインタ-ネットで一部実現しているのだ。第一どんな人でも本を貯えるには限度があるからだ。
ともかく本もそうだが晩年になると最後は人間はただ捨てることが多くなる。つくづく人間には無駄なものが多過ぎるのだ。着物を一山買っても着ることもなく終わり無駄になったり本当に死ぬときはもう何もいらないとなる。残るものとなると本当にわずかなものである。人間はあれも欲しいこれも欲しいとはじまるが最後はもう何もいらないとなってしまう。知識にしてもいくら本を買っても消化できるのはほんのわずかであり知的成果として残せるものもわずかである。結局知識も虚しいともなってしまう。人間は最後はいろいろなものをもっていてもわずらわしいだけになる。人間モノにとりかこまれているけど最後に必要なものはモノとしてはほんのわずかである。「もうなんにもいらない」となってしまう。来世に旅たつとき何が必要なのか?となる。それはモノでも金でもない、死ぬときはこの世のものは消失してしまう。この世の価値は消えてしまう。
この世にいくら拘泥しても死ぬときはもう執着しても無駄である。この世に価値あると思えたものは消失してしまうからである。ええ、人生はこれだけなのか、人生は終わって見れば一瞬でありいくらこの世で財を築こうがその財は来世にはもっていけない、この世に宝を積んでもむなしくされる。天に宝を積めというのはこの世が全く一時的なものだったからである。これは誰しも老人になると実感として悟る。若いときは無理でも老人になると現実問題としてみんなそうなっているのだ。
焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火
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