木槿咲く塀や昔の武家屋敷 子規
木槿が武家屋敷に咲いていた。農家ではなく武家屋敷に咲いていた。子規の時代に明治になってすでに武家屋敷はない、武家屋敷に素朴なものを感じていた。
江戸時代には、垣根に木槿を植えることが藩の掟として定められていた所もあるくらい、垣によく植えられていた。
木槿は農家に咲いていたものではなくそもそも武家屋敷に咲いていた。農家で目にしたものではない、最も身近な自分たちの住んでいる家に咲いていたのである。木槿というと今だからこそ農家にふさわしいと思っていたがむしろ武家屋敷に咲いていた花だった。木槿は常に武家屋敷を飾る花だったのである。今だからこそ
城近く農家のありて木槿かな
この句を作ったが実際はその当時は城近くではない、城の中に咲いていたのである。現代の感覚から過去をみるのと当時が違っていることはよくあるのだ。明治になってから・・・藩はあとで言われたものであり当時は御家中と呼ばれいた。だから歴史は常に現代からしか見ないから誤解が生まれる。そもそも過去には帰ることができないからだ。現時点からしか過去を見ることができないからだ。それで歩くということがなくなった車社会から歩く社会、旅人をイメ-ジすることがむずかしくなっているのだ。そんなに歩けるものなのかということが実感できないのである。近くのス-パ-までも車で行く時代、歩くということが実感できないことがすでに歴史を実感的にとらえることができなくなっているのだ。距離感覚があまりにも違っているからだ。江戸は東京だけど仙台まで新幹線で2時間だとか想像もできない社会になっているからである。
武家屋敷でも食料を確保するためにその中に柿を植えたりすることが奨励された。武家では内職も奨励された。今日残っているお土産が侍が内職で作ったものが多いのはそのためである。そもそも武家でも今とは違い質素な生活を強いられていたのである。生活のレベルが今とは余りにも違っていたからである。
武家屋敷柿のなりにき塀古りぬ
武家屋敷は萩が有名である。塀の街として前に書いた。萩に行くと当時の武家の生活が実感として偲ばれる。当時もあのような塀がつづいていた静かな街だったのである。街全体がまだ当時を偲べるものがあり一区画ではないことに萩の良さがあった。たいがい一区画化され街全体で昔を偲べる歴史を偲べる場所は日本にはまれになったからである。ヨ-ロッパはその点街全体が歴史として残されているから歴史を身近に感じるのである。日本は開発しすぎた。変化が激しかった。昔を偲べるのものを歴史を根こそぎ破壊してしまったのである。
塀の街-萩の不思議
http://www.musubu.jp/jijikyodoshi.htm#hagi
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