2010年12月04日

地名から南相馬市原町区の大原村をみる


名から南相馬市原町区の大原村をみる

国魂太郎゛岩城氏の一族であり好嶋庄内の村々の地頭と同じ程度の名田を所有していた。
手作りとは名主の直営地のことで、佃(つくだ)、門田(かどた)、前田、内田などともいわれ、居館の近辺にあった。地頭、名主たちは土塁、堀をめぐらしてた居館に住んでいた。
堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内、腰巻などの中世の名残と思われる地名がある。
(新しいイワキの歴史)

地名から歴史を探る場合、時代区分を明確にする必要がある。中世と江戸時代とかを区別する必要がある。中世の地名が多いからここは中世から人が住んでいて地名化したということを認識する。館とつくのはたいがい中世でありそこが生活の中心となった場所である。今の感覚だと生活の中心は鉄道の駅があるところとかさらに車社会になり道の駅が中心になったり常に中心は変動している。中世は館とか堀の内、内城、御城、殿の前、竹の内・・とかが中心地になっていた。その典型的な例が南相馬市の鹿島区の駅に近い「田中城」であった。城といっても江戸時代のような城ではない、堀をめぐらしたものであり田中城はそもそも回りが湿地帯であり橋が多く天然の要塞になっていた。あと館とつのには江垂の中館とか小高い山を根城としたところが多い。これも敵を防ぐ天然の要害だからそこを中心として生活があった。
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インタ-ネットで読んで面白かったのは中世には飢饉が少なかった。庄園とか館とか中世の城内に住んでいた人は個々の家族に分離したものではない、その内では生活は分離していないで一体化していた。一つの大家族だから飢饉がきても食料をみんなで分け合うから江戸時代のような広範囲な飢饉はなかったというのも不思議である。江戸時代になると個々に別れた農家がふえたからだという。中世の生活がどうだったのかこれもわかりにくい、生活が個々に別れたというとき現代は核家族してさらに細分化しているから社会全体では協力しないから助け合うことがないからいろいろ困るのとにている。地名は生活を共同した証でもありただ中世の地名は多いことは確かである。必ず館という地名がありそれがあればその土地の中心地がそこにあったことなのである。相馬藩内でも堀の内とか内城とか殿とか竹の内とつく地名は多い。竹の内は全国的に多い。そういう地名があればそこは中世から人がすみ中心地がそこにあったということである。屋敷というつく地名もその屋敷を中心に暮らしがあった。明治時代から中心地の変動が激しくなり工業化して郷土の生活も個々に細分化されつながりが失われた。

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大原の前田という所には病院で知り合った人が一人で住んでいる農家がある。古い家だと言っていたが確かに前田となっているとそうなのだろう。つまり家の前の田がまずその地域の中心地となり草分けとなった。そこから開墾されて田が拡大化していった。下田とあるのは下田が先にあったのではなく前田が先に人が住んで下田が開墾されたのだろう。そしてさらに上の方に坂を上ると遠田という字地名があり現実に隠れるように田が確かに坂をかなり上った所にあるのを知っている。それからさらに急な坂を上ると六地蔵が隠れるようにしてあった。これは今は誰も気づかない、堀がありコンクリ-トの壁を上った上にあったからだ。あそこを見る人はいない、あの六地蔵は江戸時代からあったものだろう。あそこが昔の道だったのだろう?橲原村と大原村の境界だったのだろう。江戸時代は村が行政の単位だから村の結束力が強いから境界は強く意識された。その境界に六地蔵が置かれた。ともかく米を作るためにあのような高い不便な所まで田を作ったのが日本だった。ネパ-ルでもあんな高い所高い所へと人が住んでいることに驚く、高ければ高いほどすみにくい、すみにくい所に土地を求めて移住する。遂には冗談ではなく天に到り天に土地を求めて耕すほかなくなっているのだ。でも2000メ-トルくらいまでが限度だろう。さらに上ると万年雪が残ってしまう領域になる。

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上萱もネパ-ルと同じ事情であんな不便な高いところに住むようになった。養蚕とかが盛んな時代であり桑畑を作ったりしていた。炭焼きもしていた。でも戦後のことでありあそこに人が入ったのは新しいのである。大原に学校がありあそこから歩いてきて遅刻してしかられたというが上萱から大原まで歩いたら大変な距離である。坂道でもあるから歩いたら大変な労力である。でもそういう時代もあった。それから遂に土地を求めても土地がなくなり戦後は北朝鮮でもブラジルでも移民を募り外国に出て行った。そういう人は結構多い、アメリカで消息不明になった人が親戚にいた。実際は成功した人は少なく失敗して悲惨な生活に陥った人も多かったのである。
上萱(うえがや)は鹿島区の栃窪村に属していたが橲原村とかも近いから関係した。でも学校は大原とかなり大原の人があそこに入ったようでもある。山田という姓の家が二軒くらいあった。



その人は原町区に移り土を盛った粗末な墓があったがその墓も移動した。墓は人とともに移動する。でも土を盛った土饅頭の墓があったということはあそこで暮らしあそこで死んだ人がいたのだろうか。大倉の奥の二軒の一軒もなくなり墓も一つなくなっていたから墓も人が住まなくなれば移動するのである。大原村に前田とありさらに山田と地名がある。山田とはそこに住んでいた人かもしれない、小山田という姓があり小山田という地名もあるからだ。ともかく日本ではある程度地名からその土地の歴史がわかるのである。

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大原に冬の陽没りぬあわれかな街は遠しも昔の暮らし

posted by 老鶯 at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
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