2010年12月12日

岡和田氏の謎


岡和田氏の謎

相馬一族。相馬胤村(孫五郎)の二男・相馬胤顕(五郎)が胤村の遺領分配によって陸奥国行方郡岡田村(福島県南相馬市小高区岡田)を与えられ、室町時代後期に「相馬」を改めて岡田を名乗った
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku32.htm


岡田重胤 (1608-1650)
 中村藩御一家。相馬岡田家十三代当主。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/okada3.htm


弟は木幡勘解由長清の遺跡を継いで木幡加左衛門貞清を名乗り・・・


古館跡 久保畑にあり、古昔岡和田氏世々居る。今土垣なく悉く圃となる。応仁の乱の頃岡和田下総当邑(むら)を食(は)み其の子勘解由の子、遠江虎其の子安房宗北郷の兵士50余人の長として武功あり。(鹿島町誌)


●制野下総 (?〜1615年)

 元和元年、片倉重綱に殉死した。
 
●片倉家臣団-岡和田太郎左衛門 (?〜1615年)
 元和元年、片倉重綱に殉死した。


そもそも相馬氏系統に岡田氏も岡和田氏もいない、岡田氏となのったのは小高に岡田という地名があり岡田所領したから岡田氏をなのった。では岡和田氏は何なのか?応仁の乱の頃岡和田下総当邑(むら)を食(は)み・・と鹿島町誌に出ている。この意味がわかりにくいのだ。下総に岡和田村という所があったのか?それが不明である。和田村があっても岡和田村はないのだ。
岡和田氏は伊達氏の片倉家の一人にも仕えている。そして原町区に片倉村があるのはどういうことなのか?岡田重胤 (1608-1650)の弟が木幡勘解由長清であり重という名が受け継がれているから岡田氏と関係深いことは確かである。岡田→岡和田氏と分かれたからそうなったのか?岡田氏の系譜の中に岡和田氏があった-鹿島区の古館跡には岡田氏から分かれた岡和田氏が住んでそこが岡和田という地名化したとなる。他は地形を基にした地名が多いし姓を地名とすることはないがここだけは例外だったのだろうか?岡田氏の系譜に岡和田氏も入っているから有力である。ただもし姓が地名化するとしたらここに岡和田氏がいても不思議ではないがいない、中村城に出た岡和田氏がいて他にも分家した岡和田氏が上高平にいた。こういうことは栃窪氏とか小山田氏とかいる。その土地の村の名を他の土地で姓としている。そもそも岡和田の謎は岡和田下総当邑(むら)を食(は)み・・・というところにある。下総に岡和田村がありその村の名がここに移動してきたのかということである。確かなことは岡田氏の系統の中に岡和田村氏があったことは言える。


北海道に移住した岡和田村氏からのコメントがあったので調べてみたが明確なところは不明である。

南相馬市原町区上高平の五輪塔のある墓地の謎
http://musubu.sblo.jp/article/36245436.html

posted by 老鶯 at 00:05| Comment(12) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
この記事へのコメント
私の親は原町の生まれです。
茨城県藤代市にある小貝川の支流に岡と和田と言う地区が現在もあります。北相馬郡と言われている所です。大昔に水争いがあり戦って男と女が残り、結婚したそうです。それで岡和田と言う名前になったそうです。相馬の殿様が福島の相馬へ配置替えになった時に一緒について来たそうです。その為、鹿島地区に岡和田と言う名前が残っているとの事でした。我が家にも家系図があったそうですが、先祖の方がそれを持って北海道の帯広へ行ってしまったそうです。その為、北海道にも岡和田姓が多いそうです。親も無くなった為、確認のしようがありません。
Posted by 岡和田秋芳 at 2012年05月11日 19:45
小林様

以前、メールしました佐藤と申します。
母方が岡和田姓です。北海道に移住した
子孫となります。相馬の岡和田(昔の岡和田氏館があった)にも野馬追いを見た際に行きました。
藤代市(現在 取手市)に岡、和田が
あるのを半年前位に気が付き、岡和田姓の
始まりと関係あると考えていましたところ
岡和田秋芳 様のコメントを見て驚いた次第です。本家筋は相馬におり津波の最も被害の
ひどい地区におりましたが幸い無事でした。
系図も1500年代よりのをコピーですが
所持しています。
岡和田秋芳様
連絡頂ければコピーですが系図差し上げます。※小林様 ブログ上で失礼致しますが
お許し下さい。又、今後共、岡和田氏の
コメント楽しみにしております。
Posted by 佐藤 公泰 at 2012年05月17日 20:02
どういうわけか
岡和田氏は話題になります

岡と和田が合体したのが岡和田だった
それが相馬氏とともに相馬に移住して
岡和田の地名が生まれた?

岡和田は岡和田氏が由来?

でも相馬氏が移住しても姓が地名化しているのは少ないんです
これはどこでもそうです

移住先の地名を姓にして土着しているんですよ
相馬氏に連なる人たちもそうです

その辺が謎なんです
岡和田氏が移住してそれが地名化したという
ことは証明できない、
岡和田に岡和田氏の姓の人はいない
岡和田→岡田が共通なのか?
この辺もまぎらわしいんですよ
Posted by プログ主(小林) at 2012年05月21日 00:26
私の父方が岡和田氏です。南相馬に実家がありましたが、私の曾祖父がフィリピンに移住したので実家はありません。

話しによると今でも武家屋敷として、のこされているらしいですが行ったことはありません。

岡和田地区に家紋を調べようとして行ったんですが住んでなかった(コンビニで聞きました)ので途方にくれていたときにこの岡和田氏の謎を見つけてびっくりした次第です。

私の父から聞いたところ本家筋らしいのですが、分からない点だらけなので教えていただきたいです。

Posted by 岡和田知之 at 2012年10月01日 11:33

ずいぶん熱心に自家のル-ツ探しですか?
鹿島の岡和田まで家紋調べに来たとか
コンビニに聞いたとか
本当にここを訪ねてきた

岡和田氏についてはなぜこんなにル-ツ探ししているのか不思議です

岡和田という地名化しているところが
全国でないからでしょうか?

岡和田村からでている野馬追いの旗があります

旗も3000種類もあると言われそのル-ツがわからないです

これは紋と通じたものでもありますが
そのル-ツはかなり複雑なんですよ

岡和田からでている武家の姓は

鈴木、蒔田、渡辺、佐藤、只野、遠藤、豊田、です

この中に本家筋があれば何か手がかりになるのか?

とにかく岡和田に関心ある人がコメントしていますから不思議です

自分は一応相馬郷土史を研究していても
すべてに答えることはできないです

ただそれだけ熱心なことには感心しました

Posted by プログ主(小林) at 2012年10月01日 22:25
お盆の時に原町へ行った際、兄に昔の事を聞いてみました。
岡和田の出身は、”相馬、鹿島、高平の3ケ所がある”との事でした。
その為、野馬追いの旗には、”人人人”と縦に書いてあるそうです。
我が家は鹿島の出身だとの事です。
牛越に昔、二宮尊徳翁の奥様と子供が住んでいた代官屋敷があり、
その家を購入し西町まで移動させたようです。
その家も歴史的に保存する価値が無いとの事で昭和50年頃に解体しました。
我が家の家紋は、五瓜梅鉢(いつつもっこううめばち)です。
Posted by 岡和田秋芳 at 2012年11月01日 09:27
茨城城県藤代市にある小貝川の支流に岡と和田と言う地区が現在もあります。北相馬郡と言われている所です。大昔に水争いがあり戦って男と女が残り、結婚したそうです。それで岡和田と言う名前になったそうです
・・・・・・・・・・・

岡と和田が争い後に結婚して岡和田となったというのは興味深いですね
争った家同士が両方の姓をとったものがほかにもある

岡和田氏の墓は高平にあります
そこには古い五輪搭があります
青田氏のものみたいです

ただ岡和田氏が鹿島の岡和田にはいない
もともと岡和田にいたのが移動して
岡和田になったのか不明です

岡和田の地名自体が岡和田氏の姓をとって
地名としたのか謎です

そもそも相馬氏が移住してもその姓が地名化することはまれですから・・・

岡和田という地名がもともとあったなら
わかりますが謎です

南相馬市原町区上高平の五輪塔の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/36245436.html

ここに岡和田氏の墓があります、二つあったみたいだからここにも岡和田氏の謎を解く鍵があるみたいです

岡田氏というのは相馬藩でも重きをなしたけど
その岡田氏の系統なのか?

この辺がわかりにくいです
Posted by プログ主(小林) at 2012年11月07日 10:58
私の母親が岡和田です。その父親は岡和田寛利といい、相馬藩の出身。維新で東京に出てきて、麻布六本木にて養豚業を始め、かなりの成果をあげたようですが、その土地358坪を出雲大社の分社用に売却。自分は妻子を残して、単身北海道に渡り、十勝国広尾郡茂寄村でハッカの栽培をしながら、茂寄神社の宮司もしていたようです。現地にて死去。相馬藩での古い話はわかりません。明治維新以後の話です。
Posted by 高本修(こうもと) at 2013年02月21日 07:13
突然申し訳ありません。私も岡和田と申します。珍しい苗字だと言われますが、由来は全く知らず、とても興味深く読ませて頂きました。私の親が南相馬出身です。曾祖父が我が家の本家に当たる方だそうです。
また、やはり北海道に移住された遠い親戚の方もいると聞いたことがあります。
親が子どもの頃は、鎧や刀が多くあったそうですが、残念ながら今は何も残っていないようです。本家には家系図くらいあるのかもしれませんが。

また岡和田に関して分かることがありましたら、教えて頂けると嬉しいです。
Posted by 岡和田 at 2013年06月16日 20:55
色々な見解、憶測、確かなものが何もない岡和田のルーツ。私は岡和田の出の父親に、その昔、戦で成果を挙げた、岡、和田両家を、当時の相馬藩の偉い方から岡和田と名乗るようおうせ遣ったのが、岡和田の始まりで、大戦時の金物回収で軍に奪われるまで、家宝として、当時数本作られたという鑓と、火縄銃、双方ともに、綺麗な装飾が施されたものが、部屋に飾られていたと聞いています。回収が来ると聞き、それ等を隠したのが父で、目の前で見付かり、持ち去られたことを、悔やまれてならないと、何度も聞かされました。現在、父の生家は様々な事情により、現存していません。私の知っている限りでも、現、岡和田には、父のいう本家の直系は住んでいません。
Posted by 岡和田 at 2014年01月25日 01:48
茨城県の伊奈村を通る小貝川のそばに岡と和田という郷士一族か゛その昔親子三代に渡り水争いをしておりました。相馬様の仲介で争そいごとを止め、お互いの長男と長女を添わせ岡和田と名乗らせ相馬につれて来たそうです。
その子三人にそれぞれ中村鹿島高平に土地を与えられ岡和田の祖が出来たと思料されます。岡和田の駒印は人人人の三文字を黄色水色もう一つは分かりませんが私が高校生の頃は水色に人の三文字でした。今から50年前に祖父(甫)から見聞きしたものです。
昭和50年頃伊奈村役場まで行き地図を購入して岡と和田の地域を回って調べましたが確たる証拠は発見出来ませんでした。
岡田氏はもともと相馬の重臣ですから岡和田とは関係が無いものと思われます。
Posted by 岡和田敬文 at 2014年11月10日 13:18
5年前に本欄に投稿した高本です。私の祖父である、岡和田寛利の墓を青山墓地で発見し、当主の相馬和胤、相馬に居られる元藩士の新妻氏を経て
相馬市役所に残っている衆臣家譜の写しを入手しました。初代下総は、藩主、高胤に仕えたようですが、これは、1424-1492年ということになります。また、墓は歴代藩主の墓がある同慶寺であることは、住職に会って確認しました。ただ、同寺は、放射能汚染地区で立ち入りが制限されています。村上という地区にいた岡和田氏は避難して、現在、福島市に移住しておられます。
Posted by 高本 修 at 2018年02月02日 22:22
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