2011年01月15日

山に雪ふる短歌十首


山に雪ふる短歌十首
寂けさの深まりゆきて行く人の絶えて山に雪のふるらし


大いなる山の沈黙深まりぬ人声絶えて雪はふるかも


寂けさの極まりけるかな大いなる山の奥処に雪のふりつむ


大いなる山にしあるかな世のことを忘れて雪の深くふりつむ


絶え間なく雪のふりにきこの世なる罪を浄めつ山に雪ふる


人の世の騒擾やまじ深々と山に雪ふり忘却さるべし


人の罪山に浄めむ深々と雪の積もりて人は絶えにき


真実の顕かなれや冬晴れの朝にひびかむ山に声あり


冬の朝四方にひびく山の声顕かなれや誠なるかも


みちのくの山々眠る騒々し文明の音しばし断つべし




今日も寒い、暑すぎてもそうだが寒くても眠くなる。こたつに入っているとと眠くなるのだ。冬は眠りの季節である。都会は眠らないし文明に眠りがない、休みがない、冬は自然のリズムで生きているなら休む時なのである。世の中の騒擾は絶えることはない、しかし大いなる山の静寂はそれらを打ち消す、古来日本人は山への信仰があった。山は聖なる浄めの場所だった。だから山を祭り山に登るときは潔斎して登った。今でも山自体の荘厳さは変わらない、山は神の住む神聖な場所である。そこを汚してはならないのだ。葉山信仰などもすぐ後ろの山でも聖なるものとしていた。やはり山には何か神秘的な力を感じていたのだ。山モ-ゼもシナイ山で十戒を授かった。には俗世的なものを持ち込むべきでせはなかった。それで山岳信仰はもともと古代からあったのである。スキ-なども実際は山が眠るとき騒々しさをもたらす。文明はそうした自然の神聖さ清らかさを汚してきた。 人間がすべて人工化した場所が大都会でありそこは奇形化異様な世界と化している。宗教はカルトと化して神聖さは喪失したのである。政治家経済化した宗教である。その点かえって山で身を清めようとした山岳信仰の方が宗教的である。宗教があまりにも社会化しすぎてしまったのである。宗教はほとんど政治であり経済活動の一環としてあるだけである。神道でも仏教でもキリスト教でもあまりにも社会化しすぎてしまった。社会化することは結局この世の汚れにそまることなのである。社会活動のなかに組合活動のなかに組み込まれてしまったのである。釈迦のように山の洞窟で修行するような人がいないことでもわかる。都会の中で政治経済活動に没頭しているのだ。

ともかく人間が自然のリズムから離れた生活をするときそこには奇形化変態化する。農家だったら冬は仕事しないというのは意外だった。春を待って仕事をする。行事として信仰として雪の田んぼで田植えしたりする。それはまた豊作への祈りとなる。人間は自然のリズムとともに生活していたら鬱病などなかったろう。そこに大いなる自然の癒しがあるからだ。ただ農業でもあまりにも商業化した農業だと忙しくなり過労になってしまう。人間はやはり欲望を際限なく拡大しすぎたのである。多くの人が農家だったとき冬は休む人が多かったのだろう。文明は異常に活動しすぎなのである。今日は山の方に雪がふっている。しんしんと静まって気持ちがいい、雪がしんしんとつもるだけでありそして忘却がある。忘却は癒しである。人間嫌なことは忘れたい、大いなる山は浄めの場所なのである。今は誰も家にいないからかえってせいせいする。でもまた退院迫られているからまた災いがもたらされることになる。結局老親には良くされたがその代償として苦労させられた。冬はゆっくり休むべきである。心身を休ませる季節なのである。
ここには高い山はないが一応阿武隈山脈があり山はある。山はやはり会津の方になるが山というのはわかりにくい、山には声なき声がある。山から厳しくひびくものがある。その声は真実を示す声である。大いなる山から発するものは卑小な人間界のことを超越している、山を思うとき心は高鳴り清められるのだ。


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