2011年02月15日

素心、素朴な人が失われ時代(漢詩よりふりかえる)


素心、素朴な人が失われ時代(漢詩よりふりかえる)


杜甫


  舎南舎北皆春水   舎南(しゃなん) 舎北(しゃほく) 皆 春水(しゅんすい)
  但見群?日日来   但(た)だ見る  群?(ぐんおう)の日日(にちにち)来たるを
  花径不曾縁客掃   花径(かけい)  曾(かつ)て客に縁(よ)って掃(はら)わず
  蓬門今始為君開   蓬門(ほうもん)  今 始めて君が為に開く
  盤?市遠無兼味   盤?(ばんそん) 市 遠くして兼味(けんみ)無く
  樽酒家貧只旧?   樽酒(そんしゅ)  家 貧にして只だ旧?(きゅうばい)あり
  肯与隣翁相対飲   肯(あえ)て隣翁(りんおう)と相(あい)対して飲まんや
  隔籬呼取尽余杯   籬(まがき)を隔てて呼び取りて 余杯(よはい)を尽さしめん


  ⊂訳⊃
          草堂の南も北も  豊かな春の水
          目に入るものは  日ごとにやってくる?たち
          花散る小径も  客が来るからといっても掃除せず
          粗末な蓬門も  あなたのために初めて開く
          大皿の料理は 市場が遠いのでありきたりの品
          家が貧しくて  樽には古い酒があるだけです
          隣家の老人と  いっしょに飲んでみませんか
          垣根越しに呼び寄せて  残りの酒を平らげてもらう



陶淵明


 登高賦新詩  高きに登りて新詩を賦す
 
 過門更相呼  門を過ぐれば更ごも相呼び
  有酒斟酌之  酒有らば之を斟酌す
  農務各自歸  農務には各自歸り
  閑暇輒相思  閑暇には輒ち相思ふ
  相思則披衣  相思へば則ち衣を披き
  言笑無厭時  言笑厭く時無し
  此理將不勝  此の理 將た勝らざらんや
  無爲忽去茲  忽ち茲を去るを爲す無かれ
  衣食當須紀  衣食 當に須く紀むべし
  力耕不吾欺  力耕 吾を欺かず


陶淵明「飲酒二十首」


結盧在人境。    盧を人里に結んで住んでいるが
而無車馬喧。    貴人の車馬の来訪する喧しい音はない 
問君何能爾。    どうしてこんなに静かに暮すことが出来るかと言うと
心遠地自偏。    心が遠く世俗を離れていれば住む地も僻遠の地になる
采菊東籬下。    家の東の籬の下に咲いている菊を採って立上ると
悠然見南山。    ゆったりと南方の山を見るともなく眺めるのである 
山気日夕佳。    山に湧く気は、日中でも夕方でもそれぞれ美しく 
飛鳥相與還。    朝出た鳥が夕方に飛び連れて山に帰って行くのである
此中有真意。    その中に万象の奥の真理、自然の道理の意味を感じる
欲辨已忘言。    語ろうとすると言葉を忘れ、真実は言葉では語れない


昔欲居南村(昔、南村に住みたいと欲したのは) 
 非為ト其宅(占いによるものではない)
 聞多素心人(ここには素心の人が多いと聞き)
 楽輿数晨夕(ともに楽しく暮らしたいと思ったからだ)
 懐比頗有年(長い間、考えてきたが)
 今日従茲役(今日、それがかなった。以下、詩を省略)



素心とは
「人間の心はもともと純真なものですが、
 名利を追うに連れて汚れに染まり、
 欲望や野心からさまざまに色がついてきます。
 そんな汚染や着色を去って
 本来の純真に返った心のことを
 中国の詩人の陶淵明は「素心」と呼んでいます」


 樽酒(そんしゅ)は濁酒でありどぶろくだった。高価な酒は飲めなかった。これも今のように豊ではないが心の満足があったことはまちがいない、隣翁というのは素朴な人だった。素心なる人の集る場所を求めてというのもあるから素朴な人がいる所に住みたい詩も書いている。今の時代まず素朴な人はいなくなっている。農家の人でも素朴な人はまれになっている。なぜならすべてが金の時代になったときそうなったのである。貨幣経済ではないこれは自給自足的な生活を理想としているのは金の時代になると素朴な心を失うからである。これは老子の時代から二千年前から言われてきた文明否定の思想である。鍬でも道具を使うと人間の素朴さは失われると言っていた。文明とは人間本来の素朴さを失うものとして生まれ2千年前からそのことは警告されていた。


現代はまさにその頂点に達した時代である。人間の素心とか素朴さは全く失われた。グロ-バルに貨幣が流通して金の力が世界的な力となった。人が求めるのは金だけとなった。貨幣の発生は謎にしろ贅沢品が貨幣になったことはいえる。貨幣にかかわる漢字が貝になっているとき財が貝になっているのは南方の珍しい貝が貨幣になっていることが如実にそのことを示しているのだ。貨幣はもともと装飾品でもあるから金銀や宝石も貨幣になりやすい、日常の生活必需品より贅沢な余剰のものとして貨幣が生まれたのである。だから貨幣はこんなに何でも交換できるものではなかった。南の島では貨幣は威信財であり巨大な石の貨幣であった。それは使われることもなかったのである。貨幣で何でも交換できるものではなかったのである。その交換もあいまいであり塩と黄金が平等に交換されていた。塩は黄金と同じ価値があったのである。現代の貨幣の価値とは違っていた。

文明とは確かに人間の素心を失う、素朴さを失うものとして発展してきた。文明が発展することは商業が盛んになり商人はどうしても人間的素朴さをもつのがむずかしい。陶淵明時代のような農民ではありえないのだ。道具も鍬でさえ人間の素心を失うものとして否定されたとき今や道具の力、機械の力は巨大化して人間を極端に卑小化する、その力の差は歴然としている。手で麦を刈るのとコンバインでは千倍もの力の差がある。すると人間の力は極端に低く見られることになるのだ。文明は人間の素心を失わすものとして常にあり発展してきたのである。貨幣が神のように力をもつようになったのもそうである。


今や人間は金に使われている、人間より金がどこでも大事なのである。どんな人間でも今や金、金、金であり金なしでは呼吸さえできなくなっている、水を得るにも金だし基本的生活が自給的生活からかけ離れているかそうなった。今までは自給的生活がありその基礎を成していたものも金が必要になった。だから毎日金なしでは生活できない、人と接することはすべて金を通じてしかありえない、だから人と接するにしてもこの人と接して利益になるのか、金になるのかしか頭にないのである。これは世界中でそうなっているのだ。ラオスの山奥にテレビが入ってきたときテレビが欲しくて母親が娘でまだ少女なのに都会の売春宿で働かせていたのである。テレビ一台でもそうなるしまだ遅れている国ではバイクが足となっている。ベトナムでもバイクが車と同じ役割を果たしていて道路はバイクの洪水となっている。バイクなどたいしたことはないと思っているが日本で車がないと生活できないとなっているごとく価値あるものなのである。文明化するとどこでも人間は同じである。バイクの価値は実に大きい、一旦その力を知れば手放せなくなる。娘を売春宿に売ってまで文明の利器が欲しくなるのである。そこで人間の素朴さは失われるのだ。


而無車馬喧。    貴人の車馬の来訪する喧しい音はない 


馬車の音すら嫌っていた時代があった。今やどこでも車の騒音がある。山奥でも道のある所ではさけられない、つまり文明から逃れる場所はないのである。もちろん文明の中で接する人間は素朴な人はめったにない、特に団塊の世代、60代から70くらいまでは高度成長の物欲中心に生きてきた世代だから素朴な人などほとんどいない、金しか眼中にない人たちである。それは自分もふくめてそうなっているのだ。ただ75才辺りから上の人は貧乏に育っても素朴な人がまだいる。日本的義理人情に固い人がいる。でも義理人情などというとすでに死語化しているのだ。ということはそういう人すら今やいないということである。だから都会はもちろん田舎だって殺伐としている。病院であった大原の農家の人は素朴な人でありそういう人と接していると心がなごむ。75以上の人にまだ素朴な人がいるがそれ以下はいなくなってたのである。人間は文明により豊になったとしても本当に満足かとなると心が充たされたかとなると幸福になったかというとこれは別問題である。その時代時代の幸不幸があり幸福そのものは数量的に計ったりできないからそうなっている。人間は文明によって幸福になったとはいえないのだ。まず素心のある人がいないことは心を許せる人がいないということは自然もないことも殺伐とするが回りにそういうなごむ人がいないということは幸福だとはいえない、近くでも田舎でも心を許してなごむ人がいないことは殺伐としたものとなる。現実にそうなっているから現代は幸福な時代とは言えないのだ。


濁酒を飲むも心充たされ
美酒を飲むも心充たされじ
いづれがよしや
人の幸不幸は計られじ
天は二物を与えざるかも


人間は今豊になっても心は充たされていない、かえって樽酒や濁酒を飲んでも素朴な人がいて心充たされていた時代をなつかしむ。美酒をあびるほど飲んでも心を充たされない、それは心が充たされないやけ酒になっている。美酒でも心が充たされない、金持ちになっても心が充たされるとは限らない、豊になり富を得て心を充たされるとはならないのが人間なのである。だから昔は貧乏だから全部が不幸だったとはいえないだろ。つまり幸不幸は計れないのである。
人間は一方が充たされれば一方が充たされないようにできているのだ。現代は物質的に豊でも精神的に充たされていない、介護時代になって必要なのはいたわりあう心だがその心がない人が多いのである。頭の中が金しかないし現代は素朴な素心の人が少ないのだからかえって介護とか一番向いていな時代になっていたのは皮肉である。清い心の人は神を見るだろうというとき今清い心の人、素心なる人をみることは本当にまれだろう。だから宗教にしてもカルト教団でありそこに集る人は清い心の人でも素心なる人でもない、この世の欲望が充たされない人が不満をかこつ場がカルト教団であり世俗的欲望をかえって強い人が集る場なのである。もはや素心なる人が集る場所などない、そういう人はアウトサイダ-になるほかないだろう。現代はそういう点では不幸な時代だったともなるのだ。

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