2011年02月25日

南相馬市鹿島区海老村の墓地から歴史を探る

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●海老村の丘にある墓所は眺めがいいビュ-ポイント



春の風海老の墓所にそふきそよぎ海を望みて我が立ちにけり


松風の一日鳴りにつ春の日に海を望みて丘の墓所暮る


この墓所の何を語るや知らざりき今日我が寄りて春の夕暮

八沢村と右田や原町方面から鹿島と海へ出る海老の方面の十字路からちょっと入ったところに墓地があった。そこは海が一望できるし平地の方も見えるビュ-ポイントだった。あそこはまだ知らなかった。近くでも知らないところがまだある。特に墓地は隠されたようにしてある所がありわかりにくいのだ。そこも家に通じている道のようなところから行くのでそこに墓所があると気付かなかった。しかしその墓所は高いところから海を望める絶好の地だった。墓所も広々として今まで見た墓地では一番いい場所にあった。


●鹿島町誌より引用文


南海老村(上海老村)-鹿島町誌より


藤金沢堤南屋形南海老右田村の田水なり。その後新堤築く、増尾五郎左衛門、立野久衛門 、土工官となりて田代源内渡部源蔵之に副たり。「日に増尾月に立野の功成りて慎も規も真須市真順順も真順、頓て田代に水の渡部」このような歌を残している。


武家天野氏羽衣の由来((下海老村)

往昔三浦左近国清なる者あり、行方郡大田村別所の塁に居る。国清は実は天野民部太輔 遠景の落胤、藤氏なり。代々ここに住して天野新兵衛と号してその子孫新太郎なる者糾管
船管となる。


倉?海岸にあり郷の税米を納め江戸に運船す


武家 -天野、渡部、島、蒔田


北海老村-武家なし


平出玄昌(北海老村)


松島瑞巌寺の雲居和尚を友とし水魚の交わりをなす、鹿島長渡両村の間、玄昌あり、玄昌と雲居この坂に会して清談すふそえになづく、一時玄昌雲居を送り帰路、刀工相州の佳正広といえる者に逢う、羽州月山に登り件を鍛えてこれを献じる本朝の名工とならむことを願う・・・
玄昌予が里に鍛うべき名水ありと、その後弟子四人ありその術を得て刀剣百振りを打ちて邦君に献ず、正広悉く秘宝を四弟子に伝えて故郷に帰る。しかる後弟子は四家に別れ公之を賞して四足門を許しこれを鍛冶四門と称す、四門の裔孫鍛刀の用水池今尚存す


●その解説


海老村はもともと海老村一村であった。それが三つに別れた。それだけ戸数がふえたためである。南相馬市鹿島区で一番古い地は鎌倉から来た岩松氏であることは書いた。つまりそこを拠点として発展した。最初は古代は浮田国造の置かれた浮田村であり次が真野郷になり次が鎌倉時代になり岩松氏が治めることになった。その四天王として島、蒔田、日里(郡氏)、中里がいた。岩松氏の四天王による謀殺のことは歴史の悲劇として伝えられた。屋形とはまさにここに村の中心の屋形があったからである。そこから発展して海老村があった。海老村は屋形村から発展したから上海老であり海に面したところは下海老となる。下海老が中心になっている、人家が多いのは昔は漁村であり塩も作り江戸時代は米も船で運んでいたということが鹿島町誌からわかる。海に面して漁業があり塩作りがあり米の運搬までしていたのだから下海老村の方に人口が集中してきたことがわかる。北海老村は下海老村のあとに作られた。郷土史は何度も言うけど村の新旧をまず知ることなのだ。狭い範囲でも新旧が必ずあるだ。事実北海老村には武家はいない、南海老(海海老)と下海老にはいる。その名だたるものが下海老村の丘の上の墓所にあった。天野というのもあり郡もあり渡部もあり蒔田もあった。これらは岩松氏の四天王と言われた末裔である。その中で消失した姓もあるがその中核的部分はなお以前としてその土地に根付いている。


面白いのは平出玄昌(北海老村)伝説で松島瑞巌寺の雲居和尚と交流があったことをが記されている。田中城のあったダイの墓所に東光院という墓がありこれも禅宗系統で仙台系統瑞巌寺系統かもしれない、古い時代から瑞巌寺と交流があった。瑞巌寺は禅宗であり伊達政宗は禅宗を奨励したから伊達の領域には禅宗が多い。相馬藩には禅宗は少ない、越中の移民関係で真宗が多い。羽州月山は関係して鍛冶工が技術を伝播した証拠として鍛冶池という地名が残っているし藤金沢という堤の地名も天野民部太輔 遠景の落胤、藤氏なりからきている。鹿島町誌にのっている文は歴史的文書であり信憑性が高いのである。


●墓地は知ることは郷土史研究に欠かせない


墓地を知るということは郷土史研究に欠かせない、なぜなら歴史が具体的に感じられる場所になっているからだ。墓所にきてその土を踏むときそこに故人が実際に眠っている。そしてその村の中にあるのだから何か昔を語るものがある。墓所はまた全く昔というだけではない今も関係している。そこには代々の家の墓があり子孫はなおもこの土地に生きている。海老の丘からの中目は特に良かった。海を一望できて陸地も望める。春の風が海からそよぎ松風が一日鳴っている。何とも広々として気持ちがいい。墓所をたずねるというだけではない、ビュ-ポイントとして隠された場所だった。墓参りに行く人は行っても近くの人でもあそこに立って眺める人はいない、一本の細い道があるだけだからだ。浜通りでも海があっても海を望む墓所はまれである。あれだけ広々として海を望む墓所があったことは発見だった。つまり以前として人間は近くのことを一番知らないという皮肉があるのだ。灯台下暗しなのである。もう郷土史など狭い範囲だから知り尽くされたとなってしまうが実際は知らない場所が以前としてあるのだ。あそこは慶応という刻まれた墓があったから江戸時代からあったのだろう。でも鹿島で一番古いのは台田中の墓所である。何故ならそこに一番古い墓があるからだ。田中城に由来するものは岩松氏についで古いからである。

posted by 老鶯 at 20:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 江戸時代
この記事へのコメント
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