2011年03月03日

南相馬市鹿島区横手古墳群の謎

mapkkkkkkkkkk111.JPG
クリック拡大

南相馬市鹿島区横手古墳群の謎

横手古墳群は道の側にあるから目立つ。目立つものはそれが重要でないものでも意識するのだ。誰でも横手古墳群は鉄道からも見えるし車で行っても見えるから意識するのだ。でもこの古墳群は寺内の金銅双魚袋が発見された前方後円墳がある場所より重要ではない、でも寺内の前方後円墳は形もはっきりせず通っても何かあるかわからないから意識しないのである。桜井古墳は大きく作ったから意識するのだ。人間はそれが過去にいかに重要なものでも今に目立つものにしないと意識しない、重要なものと思わないのである。今の時代から常に過去もあるのが歴史なのだ。今重要視しなければ過去にいかに重要な地点でも意識すらされないということである。

横手古墳群の謎は鹿島区全体の歴史と地理の中で解明される。歴史も一地点を解明するには全体を視野に入れなければ解明できない。あらゆるものは全体の一部であり体ってそうである。郷土史研究がまず村の土地の新旧を知ることが第一だというときそれも地理は一体となって知るべきなのである。鹿島区の発展経路としては


浮田国造→寺内の前方後円墳(大和系)→屋形(鎌倉時代-岩松氏)→江垂中館(南北朝)→田中城


浮田国造(くにのみやっこ)が最初にありこれは毛野氏系統の支配下にあった。ではその場所はどこかというと地図を見るとわかるがそこはやはり鹿島区の中心地にふさわしい場所だったのである。比較的高台であり平地になっている場所だった。この高低は平地でもあり地図を見ただけではわからない、この高低差は実際にその土地を踏んでもわかりにくい、ともかく浮田は鹿島区の中心地にふさわしい場所だった。そこに最初のクニが国造があったことは納得がいく。そこで横手古墳群の謎は寺内に金銅双魚袋が発見された前方後円墳があるからそこに古墳文化がもたらされた。そこから波及して小池にも二つの古墳群がある。原町区の桜井古墳の前と後ろにも古墳群があった。つまり大きな前方後円墳から小さな円墳の群が作られた。一つの村の祭祀から氏族が文化していった。本家と分家ににている。横手古墳群なぜあの地域にあるのか?寺内の前方後円墳がある場所から離れているからだ。その謎は浮田国造にあったのだ。


「よ」の単語家族
「よ」が「水平方面の中でも近い周辺」であるとすれば「他所(よそ)」は「周辺部の背(そ)」と解釈できる。「寄る」「呼ぶ」は周辺部からの移動
の意味を含んでいる。
http://www.eonet.ne.jp/~unolab/timei5/timei5.htm


ヨの不思議はヨン(四)であり蓬(よもぎ)四方(ヨモ)に広がるとかあり横浜とか横手とか横のつく地名は多い。ここの怪しい地名研究は面白い。統計的に研究しているからそれなりの信憑性がでてくる。ここまで研究しているとなる学術的にも価値あるものとなっている。


ヨコはよけるでもあり浮田国造の勢力からよけるために横手となった。桜平山の下に第六天の祠がありそこで大和軍と蝦夷が争った地域とありそこから進軍して鹿島神社を建てた。鹿島神社は大和軍の軍事の神である。その鹿島神社から横へ伸びた所が横手古墳群なのである。それは浮田国造の勢力をよける、さけるようにして作られた。ということは大和軍が毛野氏系統の浮田国造の土着民と戦かったからである。蝦夷とは実際は何者なのかわからない、ただ大和朝廷に逆らった人たちという意味でありそれ意外わからない、でも浮田国造があったのだから明かに大和軍と衝突したのである。横手に古墳を作った人たちは古墳文化をまねたのだから大和系統に支配に組み入れられた人たちだろう。それが地理的にも実にマッチしているのだ。地理的には今の鹿島町と横手地域から海に向かう方は湿地帯が広がっていた。それを証明するのが田中城の回りは湿地帯だったことである。だから岩松氏は屋形に館を構え、南北朝時代に霊山から落ち延びた桑折氏などが江垂中館に拠点を置いたのがわかる。田中城は一番あとに作られて最後の攻防の地点の城となった。その歴史的経路が地理と一致しているのだ。このよううに何度も言うけど地理がわかれば歴史もわかるのだ。そしてこの地理がわかりにくいから狭い地方史はわかりにくいのである。鹿島区と原町区だって地理が違っているから詳細にはわかりにくい、地理が長年住んでいないとわからないのだ。

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/43669940

この記事へのトラックバック