2011年04月27日

原子力の事故の原因の一つ(福島県の地形が意志疎通を阻んだ)


原子力の事故の原因の一つ
(福島県の地形が意志疎通を阻(はば)んだ)

●ハマ、ナカ、アイヅに分断された福島県の地形


地理はそこに住んでいるものさえわかりにくい、福島県は広すぎて山も多いからわかりにくい、まず会津は別の県として地形的にも地理的にとらえるべきである。地形的にも会津は会津県なのである。


二本松、若松及 び 平 の 3 県 に統合された。
しかし、 間もなく二本松県は11月14日 に福島県に改称、また、平県も同月28日 に磐前県と

改称され、 更 に明治9 年 8 月21日には若松及び磐前の 2 県 は福島県に併合されるに至った。

会津は若松と言われていた。磐城は平であり平駅があった。この中に相馬藩は入っていない、相馬藩は福島県に入るのには地理的にも無理な面があったのだろう。かといって伊達と争っていた歴史から宮城県に入ることもできない中途半端な地域になっていた。今でも地理的には交通的には福島市より仙台が近く感じられるし実際に仙台に勤めて通っている人も多いのである。実際に新地は伊達藩の境にあり代々の武士の家系の古い家があり伊達氏に属していると言い張っていて相馬藩と合併することを拒んでいた。それだけ伊達家への思い入れが強い家があったのである。

福島県はハマ、ナカ、アイヅと三つの地域に分かれている。この三つの地域は気候的にも明確に違っている。会津は雪がふっても浜通りはほとんどふらない海洋性の気候なのである。浜通りは気候的に本当に住みやすい場所だった。福島県が最初二本松県であり若松(会津)と平県に分かれていたことが地理的にもそうなった。二本松のあの天守閣のあったところから回りを見回すとここが福島県の中心だったことが実感できるし十万石となるとその規模も大きいから歴史的にもそうだった。でも福島市の人たちから見ても浜通りの人たちから見ても阿武隈山脈、高原が横たわっているから交流も地理的にさえぎられるから少ない、磐城と郡山は鉄道が通っているが相馬と福島市には通っていない、交通的にも不便なところなのである。
福島県はこうして地理的に隔絶されているから県としての一体感をもちにくかった。会津はさらに高い山々がありその地理はさらにわかりにくい。


こうした地理的環境が福島県としての意志疎通を阻み一体感をもちえないようにした。でも地形的には福島県は山あり川あり海ありで魅力的な所だった。浜通りから阿武隈高原だけでも高瀬川などの急流があり葛尾(かつろう)村や飯館村などの高原地帯の村があるなど魅力的だった。そこが原子力事故で立入禁止となりそこに住んでいた人も住めなくなるなどということになったことが信じられないのだ。こうしたいつも行っていたところが自由に行けなくなる。行けなくなるだけならいいが住めなくなるのだからこれほどの苦痛はない。県によっていろいろ個性がある。歴史的にもあり地形も様々である。でも福島県というとこうした地形的にも隔絶されていて一体感がもてない所では意志疎通もなかなかうまくいっていなかったのではないか?


●原発は双葉町と知事と東電の社長だけ決められた


今回の原子力事故でも原子力発電所そのものは双葉町が提供して福島県が許可を与え作られた。その時の知事が磐城出身の木村守江であった。今の原発の近くであった。その後に利権で渡部恒三が受け継いだ。


大合併で郡山市やいわき市を誕生させ、農村部への工業誘致、原発立地などで実績を上げた。


浜通りから出た知事が原発を誘致したことが納得がいく、そして双葉地方はもともと夜(余)ノ森地方であり相馬藩主が余の森だ、自分の森だとした磐城藩との境の未開の地だった。そうした地帯に原発が建てられた。原発は福島県の県民が全体で議論して建てられたものではない、原発がどういうものか知り得るものでもなかった。そして意外だったのは原発は事故を起こしてみて広範囲に影響する恐怖だった。南相馬市は遠いと思っていたが30キロくらいであり近かった。その距離感の目測も誤っていた。やはりここでも地理的なものが影響していた。福島県は広いから福島県に住んでいる人たちもみんな危険なものと思わなかった。中通りの人たちすらそう思っていなかったろう。阿武隈高原が壁となりさえぎるから放射線が影響するとは思わなかったろう。飯館村が一番影響したことでもわかる。そして県政の中心点の福島市が距離的に60キロ地点ありそれでも南相馬市よりずっと高かったのである。そして中通り公園が4マイクロシ-ベルトの放射線が検出されて一時間だけしか使用できないようにしたことでもわかる。放射線の影響は実は中通りも大きいものだった。事実須賀川の農家の人が風評被害で悲観して自殺している。中通りこれほど原子力が身近なものとしてあることに事故で気づいたのである。県庁のある福島市もそうである。もしこんなふうに影響あるものだったらもっと中通りの人も真剣に考えていた。


東電の原発は関東に置けばいいと言うが、そもそも誘致したのは福島県。
木村守江衆院議員(いわき市四倉出身、後に知事)が
仲のよかった木川田一隆東電社長(旧梁川町出身)に頼んだ。
当時の双葉地方は働くところがなく、出稼ぎも多かった。
そこで、木村は同郷の木川田に雇用の場をつくれないかと話を持ち掛けた。
それが原発。
木川田は木村と同じ医者の家系に生まれた。
本人は医者にならなかったが、東電の歴史に残る大物社長になった。


実は原発は福島県全体の民主主義合意討論の上に生まれたものではない、双葉地方の私的事情とか知事と東電の人脈から狭い範囲で決められた。コネで入社するとかそんなことだったかもしれない、これだけ大きなことが福島県の合意で決められたとはいえないのだ。40年前の話だから今とは事情は違うにしろその決められ方は非常に狭い範囲の中で決められた。それが今日の大惨事の基になっていたのである。それも全体的に見れば福島県が地形的にも一体感の持ちにくい事情があったのだ。会津だったら浜通りは遠いとなるし中通りから遠いという感覚でいたのである。それが放射能は福島県の中心地帯を最も人口の多い郡山から福島市に風の影響で大きかったのである。今になってこんなに放射線が影響するのかと震撼としているだろう。自分もそうだった。30キロしか離れていない、そして毎日恐怖におびえていたし今もそうである。福島県は民主主義がなかったからこそ恐ろしい原発も非常に狭い範囲や二人だけのトップで決められたりしていたのである。おそきにしていたのだが今ようやくその恐ろしさに気づきなぜなのかと底辺層まで怒り心頭になって声をあげている。住むところすら奪われ空気や水や土まで奪われたらどんな無関心派でも怒りにふるえるだろう。何事無関心なことは罪になり自らが害される。チェルノブエリも遠いから関心がなかったしそもそも日本の技術は優秀なんだということを信じていた人が多かったのである。その日本の安全神話は政治力や宣伝力などで作られたものであった。こんなに危険なものなのに安全に心血を注いでいなかったのである。民衆の無知、無関心は為政者にとって都合がいい、そして犠牲になるのは民衆であった。
福島県の県民は今犠牲者になってしまったのである。戦争の犠牲者もいろいろであり凄まじいが広島、長崎の犠牲者が原爆の最悪の犠牲者となった。そして今福島県が原子力発電の最大の犠牲者になったのである。


posted by 老鶯 at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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