2011年06月03日

津浪が明かにした日本列島の地形のダイナミズム(奈良盆地は海湾→海水湖→淡水湖→盆地に変化した)


津浪が明かにした日本列島の地形のダイナミズム
(奈良盆地は海湾→海水湖→淡水湖→盆地に変化した)

人が住むところに道ができるのは当たり前だが、ではなぜ「山の辺の道」は標高60m〜70mの高度を保ちながら三輪山の山麓をめぐっているのだろうか。その理由を大和湖の存在に求める学者がいる。三輪山麓に人類が住みついた縄文前期の約6千年前、大和盆地にはまだ巨大な淡水湖が存在し、その湖岸にできた道が山辺の道の最初の姿だというのだ。
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=201616


地図
http://yamatai.cside.com/katudou/bonntiko.htm


後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れて行くことになった。(中略)つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面が次第に低下し、最後には干上がって浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。(樋口清之「日本古典の信憑性」『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kaguyama.html


奈良のカラ-の地形図
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/index.html

大阪平野、山城平野、奈良盆地は太古は海だった。その海がしだいにしりぞいてゆき今の地形が形成された
海湾→海水湖→淡水湖→盆地


大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ

海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は


この歌はまさに太古の情景が作者のイメ-ジの中にあり作られた。極めて日本の典型的な地形の歌だった。国見をしたら海原が見えとは海が実際に奈良盆地までつづいていた。そして群山があるのも極めて日本的である。今回の津波の驚きは海湾→海水湖→淡水湖が再現された。写真にとった磯部方面の田が津波で冠水して広大な海湾になった。次に海の水はひいたが大雨になり雨水がたまり広大な淡水湖になった。それから奈良盆地になったというのはここではない、その変化のスケ-ルは余りにも大きかった。でも今回の大津波で自然の変化のスケ-ルの大きさを実感した。こんなことがありうるのだということを実感した。

日本最古の山辺の道は太古の盆地湖をさけて山側に作られた道だった。その山辺の道にそって巨大な前方後円墳が並んでいる。代々の大和の王の墓が並んでいる。そこが日本の国の発祥地だった。


やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし


ここには海が欠けて山に囲まれた地をまほろばとしているが実際は海であったところが後退して盆地になったのだ。そうした自然の大きな変化のスケ-ルを読み込む必要がある。それが実感となったのが今回の津波の経験だった。


陸前浜街道も津波が来た所をさけて通っていたという発見もそうだった。常磐線の浜吉田駅から新地駅まで津波に襲われた。名取付近も奥深くまで津波に浸水してかつて海だった所であった。浜街道は広大な海であった所をさけて道が作られていた。これは奈良の山辺の道と同じだった。万葉集は太古の古代の地形の記録を残している雄大なものだった。それは失われた日本の地形を歌っていた。「 陸奥(みちのく)の、真野(まの)の草原(かやはら)、遠けども、面影(おもかげ)にして、見ゆといふものを-笠女郎-もそうである。津波で実際に塩崎まで潮水がおしよせた。そこに船着という地名があり船も流れてきたから驚きである。奈良の場合はさらにスケ-ルの大きい地の変化があったのだ。そういう視点をもつことはなかなかできない、でも今回の津波で現実化したからこういうこともありうるのだと実感した。海だったところが湖となり平地となりやがて山に囲まれた盆地になり大和(ヤマト)となった。その名残としして山辺の道が日本最古の道として残ったのである。そういうスケ-ルの大きな自然の変化から万葉集を読みまた歴史を解読することが必要なのだ。歴史でも太古から見ればそこにスケ-ルがいかに巨大かわかる。
津浪は恐るべき自然のドラマだった。津浪にのまれた人々もまた様々な語り尽くせないドラマと伝説を作った。こういうこと一生の間でもなかなか経験できないだろう。何百年と生きてしか経験できないことである。しかし自然の時間のスケ-ルは余りにも長く大きいから計り知れないものとなる。日本列島は実際に大陸とは違い桁外れに若いというのは本当なのだろう。だから絶え間なく地殻変動があり火山の爆発があり地震があり津浪が襲ってくるのだ。でもこれだけの津浪を経験するのは5百年に一回くらいとなるから歴史を忘れていたのである。


日本では現在の海岸線よりずっと内陸まで海になる時期が長くつづきました。縄文時代の貝塚が栃木県のような
内陸の山奥でも発見されるのはそのためです。そしてこれは現在の日本の海岸線がの多くが数千年前はには海底だったことを意味します。したがって海岸線はどこでも堅牢な岩盤ではなく土や泥が堆積してできたもろい地盤が多いのです。(広瀬隆)


これらの地域は、古東京湾の最も奥(今の渡瀬遊水池付近)につくられたものです(地図)
http://www.maibun.or.jp/qa/a21.html

こう分析して日本の原発は危険地帯にみんな建っているから危険だと警告しているのもわかる。つまりそうした千年とかのスケ-ルの歴史で見ないことが今回の原発事故を防げなかったの要因である。日本は大陸とは違い変動しやすい大地であり地形である。特に海に囲まれているから海の変化を受けやすい、それが津浪だったのである。


先人たちは、津波をよけて街道・宿場町を作った
http://tokyotimetravel.wordpress.com/2011/04/24/



posted by 天華 at 03:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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