2011年07月07日

復興大臣-松本龍は世良 修蔵か(踏みにじられた東北の歴史)


復興大臣-松本龍は世良修蔵
(踏みにじられた東北の歴史)

●東北人が踏みにじられた戊辰戦争


大東亜戦争以来六十年は動乱を経験していない、動乱とは何かわからない、戦争を経験した人は知っている。戦後生まれの人は社会がこれだけ動乱になることは経験していない、でも動乱は常に歴史にはあった。明治維新がそうでありこれは最大の日本の動乱だった。その時何が起こったのか、東北の最大の動乱だった。錦の御旗をふりかざして官軍が東北の地に攻めのぼってきた。東北はその時同盟して抵抗しようとしたが果たせなかった。相馬藩はいち早く官軍に降った。そして仙台藩と丸森で戦うはめになったのである。この時も東北の諸藩は混乱状態におちいった。三春藩は裏切ったとか会津は最後まで戦い敗れて焼け野原にされて敗残の兵は青森の荒野に等しい下北半島に追われた。そういう悲惨な歴史が何度も会津では語られている。



相馬藩降伏(1868/08/07)と戦死傷者

家中 17人。 給人郷士 69人。 足軽 16人。 農兵 12人。 夫卒 11人。
負傷 129人。   相馬兵の多くは棚倉城攻防戦で戦死。    (出典:相馬藩政史)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/info/boshin.htm


百人くらい相馬藩士が死んだ。農兵も十二人いた。仙台藩は大藩だったけど見かけ倒しであり西の進んだ装備の西洋式軍隊に敗れた。こういう動乱のとき少年兵までが狩り出される。会津白虎隊とか二本松少年兵がそうであった。装備がないから肉弾戦で最前線と戦わされ討ち死にした。戦争中の特攻隊である。ぎりぎりになればやはり日本は特攻隊になる。
そして貞観津浪があったときも大和朝廷軍に蝦夷(エミシ)が踏みにじられたときであった。それはおそらく大和朝廷から使わされた人々も津浪にのまれ死んだ。多賀城市の被害も大きかった。この時も動乱の時代だった。動乱は天変地異とともに起きてくる。津浪は東北に日本に動乱をもたらしたのである。東北列藩同盟などが騒がれたが今も東北は一致団結すべき時でもある。


●復興大臣-松本龍は世良 修蔵


仙台藩としては丁重にお迎えしたのだが、宮様はとにかく、
参謀としてやってきた世良修蔵というのが何やら異常に
威張っている。しかも、連れてきた軍隊というのが、たかだか
500名である。それで、数十万の兵力を持つ東北諸藩に
命令を下そうというのである。
仙台藩はあきれてしまった。

しかも、もっとあきれたことには、世良修蔵という人物、
元々は士分でもなく、出身は漁師もどきだという。
長州では奇兵隊という、身分にかかわらず作った軍隊が
あり、その中で出世したのだというが、そういうものが
公家を頭に置くだけで、仙台藩主に対等どころか
「会津を討て」と恐喝まがいの言葉を発するのである。


こういうとき政府から使わされた復興大臣が松本龍でありまるでごとき暴言を吐いて息巻いた。政府の力を見せつけるように宮城県知事に向かった。そのニュ-スを東北放送はあえて放送した。やはり東北の意地をみせつけたのか?東北は今明治維新の時のように受難の時なのである。だからの世良 修蔵ような人物が東北に乗り込んできた。そして言いたい放題ということである。明治維新の時も九州辺りからもこの相馬藩で戦い死んだ武士がいる。その墓が祀られていて福岡辺りから来た人が感心して語っている。敵なのに墓として祀っているということである。この時の動乱は侍だけではない庶民もまきこんでいた。遊女が薩長に体を売ったとか会津藩に殺されたりした。

白河は一時会津藩に占領される。世良とほんの一時過ごしたというだけで、志げ女は、世良を憎んでいた会津藩兵により、殺害される運命となった。
戦争とはこういうものだろう。遊女は当時の政治のことなどわからない、会津藩もそういうとき血に飢えていたのかもしれない,理性を失っているのだ。動乱ということはそういうことである。


●戊辰戦争に負けた東北への酷い仕打ち


東北は常に踏みにじられてきた。蝦夷(えみし)の時代からそうである。鎌倉時代も鎌倉幕府に平泉の藤原政権は敗れた。明治維新でも会津は悲惨であり薩長に踏みにじられた。その無念は延々と語り続けられる。「白河以北一山百文」というのもそうである。だから松本防災相の暴言はまさにそのことを想起させたのだ。それも弱いとき苦しんでいるときそういう言葉を良く吐けるものである。今ままでのような平和な時代でないから動乱の時代だからそういうことも起きてきた。動乱の時代だから何が起きるかわからいない、そしてこういうとき情報が混乱するのだ。

志げ女はそうした時代の犠牲者だった。原発事故でもそうした犠牲者がすでに何人かでている。福島県で礼儀正しく対応したのになぜ宮城県ではあんな不遜な対応になったのか真意がわからなくなる。東北人をさかなでするようなわざと怒らせるような暴言をはいた。復興に熱心だったという裏返しなのかその真意が計りにくい、動乱の時代にはそういう人もでてくる。


津浪であれ原発事故であれこれだけ東北人が呻吟している時はない、 歴史はくりかえすというときこれもそうだったのかもれない、世羅修三の再来だったとなる。24才くらいだからその任にあたるのがむずかしかった。でもそのくらの年の人が明治維新を成し遂げた。若さがないととても生死を賭けてやれない、自分も年だからこうした動乱にはやはり若者が活躍すべきだと思う。老人はやはり動乱に弱い、だから避難して死んだ老人の数は百人以上よりかなり多い。動乱のときは強力な指導者が必要になる。つまり英雄がててくる必要がある。優秀な指導者に指揮されないと民衆は前の戦争のようにひどい目にあう、それが民主主義ではできにくい、結果として自ら民衆が苦しむことになる。
明治維新では英雄が多数排出したように動乱の時代はそういう傑出した人が要求されるからである。

東北列藩同盟というときそういうことも必要になる。東北全体で復興で取り組むとするとそういう一体感が必要になる。動乱の時は平和時にないことが次々と起こる。互いの連帯や共同も起きてくる。それは各地に避難した人たちも体験した。これだけ大勢の人間が移動したということを経験していない、南相馬市の鹿島区でも人口が一挙に5000人とか増えるかもしれない、これだけ人口が増えることの影響が大きい、他の津浪被害を受けた所も大勢の人の移動が起きている。仙台ではアパ-トも借りられない状態になっている。仙台には人が集中しやすいのである。



 
posted by 老鶯 at 01:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降
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