2011年08月03日

大和元興寺五重塔跡の桜


大和元興寺五重塔跡の桜

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白珠は人に知らえず知らずともよし 知らずともわれし知れらば知らずともよし 1018
この歌は、その中のひとりが「独覚多智」でありながら、人にみとめられない才学を自嘆した、という一説を左注します。「独覚」は、独り覚(さと)るの意味
 歌の形は、旋頭歌(せどうか)577・577。しばしば問いと答えと相対し、あるいは類句を繰り返しても謡われましたが、天平時代には流行が去っていました。いま、その古い形でしきりに同音同句を繰り返すのです


「元興寺」とは、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である「法興寺」が、
新京「平城京」に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。元興寺の創建後、
飛鳥の法興寺は「本(もと)元興寺」と称されるようになりましたが平安時代に焼失して
しまいました。本元興寺の跡には、有名な「止利仏師」の制作による「飛鳥大仏」を本尊
とする「飛鳥寺(あすかでら)」が建立されております。「法隆寺金堂本尊釈迦如来像」も
同じ止利仏師の作です。

「古代の寺院」は葬儀の法要は行いませんでした。何故なら当時の仏教には葬儀に関
する経典がなかったというより釈迦の考えが葬儀の法要は在家の者に任せよというこ
とでした。それが現在、「元興寺極楽坊」には墓地があることから国家鎮護の寺院から
庶民信仰の寺院へと刮目すべき変革には劇的なドラマがあったことでしょう。
寺院の掲額には「元興寺」となっており元興寺の寺号を引き継いでおりますが創建当
時の遺構は五重塔跡のみとなっており通称元興寺(塔跡)と呼ばれております。


室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/gankouji.htm





元興寺の礎石



元興寺その謂われは古き

飛鳥仏にもさかのぼるかな

平城宮(ならのみやこ)の大寺なりしも

華やかに五重塔のここに聳えぬ

都は奈良より京都に移りぬ

その栄えもいつしか衰えぬ

ただその塔跡の礎のみ残りぬ

今し桜の花の盛りなるも

その花びらの礎石に散るもあわれ

地元の人の集い花見かな

元興寺の広き境内は奈良町となりぬ

世はかくして移りゆくものかも

その大和の歴史の古きを偲べ

春の日はさして古の栄の日は遠し

ただ礎石のみそこに残りぬ




たまたまテレビで地元の人が集い花見をしているのをみた。そこは元興寺跡であり礎石が残るだけだった。この元興寺は日本最初の飛鳥仏があり飛鳥寺をひきついだとすると本当に古いものである。それで万葉集にもここの寺の僧が残した歌があった。それが旋頭歌というのだからどれだけ古いかわかる。


旋頭歌について
http://neige7.web.infoseek.co.jp/sedoka.html

一種の掛け合いの歌であり民謡から発したものである。万葉集の基はもともとそういうところにあった。奈良の寺は規模も大きかった。官寺であり鎮護国家を目的としていたからだ。東大寺の奈良の大仏もそうである。蝦夷征伐などがあり鎮護国家が急務だった。日本統一するあたってかなりの犠牲者が出たからである。その霊を鎮魂する寺だった。だから死者を弔うことなどしない、もともと仏教は死者を弔うことはなかった。お盆とかは日本の古い民間の習俗が基となり仏教にとり入れられたのである。仏教そのものにはそういうことはなかったし戒名もつけることもなかった。それは僧侶にのみつけていたのである。この元興寺もやがて庶民の信仰の場となり変質した。その前に一揆があり五重塔の消失したというのもいかに歴史の変遷をしているかわかる。


奈良や京都を旅してもなかなか歴史はわからない、奈良町に実際自分は訪ねている。でもここが元興寺の境内跡だったということは知らなかった。歴史とはそれだけちょっと旅で訪ねただけではわからないものがある。自分の住んでいる場所すら奈良のような歴史がなくてもそれなりにある。でもそのことがわかるのは容易ではない、住んでいれば歴史は自ずと身につくことはある。結局なぜ歴史がわかりにくいかというと人間の社会というのは無常だからである。人が死んだらたちまち忘れられて墓の名前くらいしか残らず不明になる。残るのは人間の無常の跡だけである。五重塔があったといっても礎石だけになる。でもそれだけでも残っているから奈良などは歴史がある。万葉集にもその寺の僧が残した歌まで残っている。そういう点で歴史を認識する点でみちのくとはずいぶん違ってくるのだ。


無常といえば前に平城宮を訪ねたときそこは枯野だった。そして月がでていた。実際に何もなかった。今は平城宮跡に立派な門を再現している。でもそうしたことが昔を偲ぶことなのかというと疑問なのである。歴史はやはり人間の無常を示す場なのである。芭蕉が平泉を訪ね「奥の細道」を書けたのもまさに観光地化していない無常を感じたからである。今のように観光地化博物館化したりしたら無常を感じない、するとかえって昔を偲べないという皮肉が生まれる。そういうことか現代では多すぎる。旅人は今は浅薄な体験でしかない、深い体験になりにくいのだ。テレビを見て旅をすることはできない、でも結局その背景の長い歴史を知ると見る眼が違ってくる。インタ-ネットはバ-チャルな旅をするのに向いている。たいがい実際にその場を踏んでいるので必ずしもパ-チャルにはならない、自分の体験からものが書けるのである。


テレビ番組の問題は大衆向けに視聴率が絶えず念頭にあるからむずかしいことはやらない、NHKの大河番組でも通俗的歴史解釈であり歴史の真実はわからなくなる。現代の問題はすべてが大衆向けに作り大衆化するからかえって事の真相がわからなくなる。だからテレビとインタ-ネットの統合が必要になってくる。自分がしていることはまさにテレビとインタ-ネットと自分の体験を一体化して編集したものなのである。

大和元興寺五重塔(極楽坊五重小塔)
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_gangoji.htm


ここは古い図がでていて詳しい、五重塔は江戸時代まであった。それなりに詣でる人がいた。

引用したテレビの写真は著作権にふれるかもしれない、誰でもとっている構図にしても桜咲いているときだから貴重になる。ぼかしているからわからないか?今は映像の時代だからどうしても映像化することが要求される。ただ映像だけではわからない、歴史の長い深い背景がある。
それを知らないと何か深い感慨にはいたらない、それがわかるのは芭蕉の平泉の金色堂の俳句なのである。


メデアの変化

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テレビにはテレビの役割はまだある。でもテレビが独占した時代は終わった。インタ-ネットを通じて多角的になった。テレビは大衆的通俗的すぎることである。これも何百万の人にみてもらうためにそうなる。どうしても低俗化する。一方インタ-ネットは素人的専門性がある。でも本の専門性に比べると相当に低い。専門的な本を読むことはそんなにできない、本はプロが書いているから金にもなる。だから簡単な名所の案内などに役に立つ、だから創造的なもの著作権があるものとは限らないものが多い。

ただ大衆的なものよりは素人的専門性がインタ-ネットで備わりそれからより知りたい人は本を読むことになる。一般的に本を読むまでになるとあまりしない、テレビだけの時代は終わった。

ここで新聞は入らないが新聞はテレビより必要なくなった。テレビはやはり映像ということで情報発信で強さをまだ持っている。本はプロ的なことでまだ強さをもっている。新聞は映像もだめだし専門的発信もないから新聞は衰退し必要なくなる。インタ-ネットは速報性があるのだからそこで生き延びることもありうるがその内容によるだろう。情報環境は今やインタ-ネットなしではありえないのである。インタ-ネットに組み入れられることを拒否してももはや無理だし無視できない、そういう必需品になっているのだ。インタ-ネットでもやはり専門性があればどこでも生き残る。専門的なものを追求するのは別にメデアとは関係ない、それは相当な積み重ねや努力が必要でありインタ-ネットの素人集団だけでは書けないのである。

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