2011年08月23日

(看過されていた慶長津浪の被害) 小高から中村(相馬)に城を移したのは津浪の復興のため?



(看過されていた慶長津浪の被害)
小高から中村(相馬)に城を移したのは津浪の復興のため?



1611(慶長16)年12月2日、三陸沖、M8.1

さらに慶長16年(1611年)12月に宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。
治家記録慶長16年11月30日条に、この津波の到達した場所を推定できる記載がある。海に出ている間に地震発生、津波に流され、舟ごと「千貫松」に流れついた記載。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある。

400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html


慶長津浪の後に復興させるために小高から中村に移った。それと伊達市から守るために中村に城を築いた。そもそも相馬の城が津浪の復興のためだったとは思いもよらなかった。津浪の影響がこの辺でそんなにあったのかということである。伊達氏との争いは相馬の歴史では常に語られている。しかし津浪のことなど誰も注目しなかったのである。確かに津浪で被害を受けたらその復興になったことはありえる。被害を受けた人々を中村に集め仕事を与えることもできた。双葉、大熊まで今回の津浪と同じ様に被害を受けている。それにしてもなぜ東電では400年前にこれだけ被害のあった津浪が記録として正式に残っているのに全く考慮しなかったのか?

貞観津浪は千年前以上だから考慮するとなると現実感がなくなるかもしれない、それにしても400年前にこれだけの被害の記録が現実にあったのである。700人は今回死んだ数に匹敵するくらいだろう。人口密度がまだまだ低い時だからである。東電は地元の歴史を良く研究しなかった。東北電力では女川は津浪を考慮して高台に建てて助かった。女川はもっと津浪の被害があったことがわかっていた。入江であり危険な地形だった。東電は東京だから地元の研究していなかった。?でも地震のことは科学者の専門家がいるのだから危険性は提起されていたのだ。


住民団体や日本共産党は、再三にわたって、国と電力会社に申し入れを行い、国会で質問し、対策を求めてきました。しかし、国と電力会社は、「現実には起こらない」「多重、多様な電源設備がある」などといって、この問題に目をつむってきました
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-06-02/2011060204_01_1.html

実は5年前の2006年3月1日の衆議院予算委員会分科会で、まさに今回同様の事故への懸念が指摘され、危機を回避するための措置を講じることが「約束」されていたのだ。
質問者は日本共産党の吉井英勝衆院議員、答弁者は二階俊博経産相(当時)と政府参考人の広瀬研吉保安院長(同)。以下はその議事録からの抜粋だ(敬称略)。

吉井「冷却系が喪失するというのが津波による(略)問題」「大規模地震によってバックアップ電源の送電系統が破壊される」「老朽化したものの実証試験を行ったということはどれぐらいありますか
http://president.jp.reuters.com/article/2011/04/01/
650DA4AE-56B6-11E0-8777-12CF3E99CD51.php




これほど指摘していたのに何ら対策をしない、清水社長はコストカッタ-でのしあがったとか言われるから金をかけたくないから古い型のマ-ク1を使いつづけたし津浪対策もあえてしなかった。ただマスコミに安全神話を作るために湯水のように金を使っていたのである。その責任は余りにも重すぎる。

郷土史というとこうした災害とか余り関係ない深刻なものがない好事的なものとして追求している面があった。でも実際は郷土史にも重大な危険を教えるものがあった。それがこの津浪の記録だった。しかしこの辺でもこの津浪のことを特別とりあげて警告している人などいなかった。
やはりただ700人が死んだという記述だけではものたりない、どういう被害が浮かんでこない、しかしこのことをもっと注意していればこんな被害にはならなかった。海岸線でも余りにも無防備だったのである。海岸線に家があれだけ密集していることがどれだけ危険なことか慶長地震の津浪を想像していたら恐怖していたはずである。何かしらの備えをしていた。ただ松川浦近辺で津浪の被害があったところは湿地帯であり津浪の後に開拓されたのだろう。それは仙台平野と同じだろう。漁師が被害になったのか?どういう被害にあったのか詳細がわからない、ただこの津浪の後にも開拓されて田が作られたことは確かである。新百姓として松川浦に入った人もいる。そういう人は漁師をするというより田を作ったのだろう。塩場をもっている人がありそれは原釜などでは大きな収入源となったから津浪の後でも仕事をはじめた。ただ慶長というと小高から中村に移ったばかりだからいろいろ整備されていないことは確かである。津浪で潮水をかぶったところより奥も湿地帯であり徐々に海側に開拓していったことは確かである。今開拓されて田になっている所はみな慶長の津浪の被害を受けたあとに田になった所なのである。津神社(つのみつ)は慶長の津浪の記念として祈念のために建てられたのだろうか?


ともかく地震の専門家も東電にはいるし十分に研究できる金もある。そして厳しく危険なことを指摘されていたのに東電では一向に手をうたなかった。事故の直前まで指摘されていた。
そして内部をしりえたのはGEの技術者、アメリカ人だったのである。その人は身の危険を感じていた。東電は過失致死罪にあたるとか言う人もいる。でも検察では罪に問えないとか言っているのも結局検察も官僚であり東電擁護に回っているからである。検察、警察官僚の有力な天下り先が東電だからである。今回の事故は想定外の津浪のためだというけどそもそも東電では津浪の備えなどしていなかったのである。想定外もなにも津浪そのものを無視していたのだ。だから東電の罪は大きい、これだけ危険なものなに危険でないという安全神話を作るためにのみ膨大な金をマスコミに使い政府と一体となっているから余計に奢りになった。その奢りをとがめる人もいない、保安院は内部の人であり厳しくチェックする人達ではない、だから津浪のことに関しても甘いし見逃しているのだ。これは想定外のことではない、そもそも津浪を想定していなかった人災だったのである。ただ地元の人も自分もふくめ津浪に関心がなかった。400年前にそんな大きな津浪の被害があったなどはじめて聞く人が多い。それだけ関心がなかった。貞観津浪は学者が最近、土壌から砂が発見されたなど津浪の跡を科学的に証明していたので関心があった。慶長津浪についてははじめて聞くことだったのである。そこに津浪がこの辺では盲点となっていたのである。

posted by 老鶯 at 05:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/47504611

この記事へのトラックバック