2011年09月02日

日本人が歴史感覚が欠如している原因 (時制がない日本の言葉にあった)


日本人が歴史感覚が欠如している原因

(時制がない日本の言葉にあった)

timemap1221.jpg


She lived in tokyo for 10 years.

彼女は10年間東京に住んでいたことがある。(今は住んでいない)


She has lived in tokyo for 10 years.

彼女は東京に住んで10年になる。(まだ住んでいる)


I lived with my familyr in my house for a long time

I have been living with my family in my house for a long time

I had lived with my family in my house for a long time



この英語の時制にこだわる言葉は何を語るのか?それは時間の感覚の相違なのである。
日本語の時間の感覚は単純である。過去はあっても昨日が過去でありさらにさかのぼった過去を言葉上で表現しにくい。住みつつけている・・・住み続けていました・・・過去をこうして明確に分けることはできない。あま一定期間住んでいるとき、ある過去の一時点がら住んでいるときは過去完了進行形になる。単に住むといっても過去から住んでいるのか今住んでいるのかでは違っている。過去の時間を重んじる思考があるからそうなる。日本語は単純な過去であり継続した過去としてとらえていないのだ。英語の時制は単なる過去でもない、過去から常に継続している時間、生きている時間を現している。時間のとらえ方としては深い。日本語は時間感覚では浅薄である。ということは歴史的時間を生きることが苦手である。日本人はそれなりに歴史があっても歴史の認識には弱いのである。なぜ三陸であれだけ度々津浪の被害にあっているのに高台に住まなかったのか?そのことが責められている。なぜ責められるかというと今や国民の税金が使われるからそう言われる。江戸時代のような地域のみで生活していたならそういうことは言われないのである。だから今や地域の問題は必ず全国の問題になるし世界の問題にも成る。勝手に地域で自己責任でやればいいのであり他は関係ないから無関心ではいられない、日本でもそうでありグロ-バル化すればグロ-バルな責任問題にもなる。世界で起きることが必ず日本でも影響してくる。中国の原発は安全なのか、勝手に危険なものを作って迷惑かけられては困るとなる。

日本人は歴史感覚にともしい民族だったのか?ヨ-ロッパや中国は歴史感覚が日本とは違っているだろう。それだけの長い時間の集積した歴史がある。ヨ-ロッパでは石の建造物が多いからロ-マ時代のものも明確に残っているからそこから歴史感覚を磨くことができる。日本は木の文化だからなかなか昔のものがそのまま残っていない、家すら10年くらいで建て替えるとなると庶民レベルで歴史感覚が身につかない、外国だったら何世代も住み続ける家がある。パリの石造りの家などがそうである。日本人は水に流すとか過去を留めない民族性がある。過去が昨日の過去であり歴史的なことが過去から継続しているという時間感覚が希薄なのである。そういうことが全般に影響しいるかもしれない、原発にしてもそうした長い目で見る歴史的感覚があったら津浪の対策もしたし安全性を考慮した対策もした。もちろん千年に一度大津浪となると想定外だというのもわかる。しかし日本人は根本的に歴史的時間感覚がヨ-ロッパや中国に比べて浅薄なのだろう。それは肝心の言葉にも現れている。言葉が思考の基だというとき常に歴史的感覚が欠如した思考をしているということになるのだ。過去完了とかには明確に過去を存在化するものがあるが日本語の・・・・したという感覚は過去に重みを置かない表現である。


I have been living with my family in my house for a long time


これは一見なんの変哲もない文章に見えるが哲学的に考察すると大きな違いがある。
過去から継続した時間を示しているのだ。日本語だったらこういう表現はできないのである。
過去か現在か未来しかない、非常に単純なのである。時間は継続していることに意味がある。・・した・・で終わらないのが時間であり人間の生活である。そして未来はwillだとするとwouldになり意志となる。未来はこうあってほしいというときそれは人間の意志として未来はある。未来は人間の意志によって構築されるものでありまた変えられるものであるという思考になる。そこにはどうになかなるだろうとかなりゆきまかせとかそういう他力本願思考とも違うものとなる。未来への積極的意志が言葉にも現れている。そこには主語が明確にあるから主体が明確でありそういう言葉を使っているから日本人のようなあいまいななりゆきまかせの思考とはならないというのは言える。

過去も継続しているし未来も過去から継続している。そういう時間感覚が歴史的時間感覚である。長い間一つ家に住んでいた家族は継続した時間の中で生活していた。そして死んでもその生活した時間は継続している。過去は過去ではない、人間の中では常に継続している。過去は何か・・した・・ということで終わることがないのだ。家というのは建物だけではない、家には長い時間の中で作られた思い出がありそれは家族との思い出があるから認知症の老人でも家に帰りたいというとき実は昔の家族団欒の家に帰りたいという願望なのである。家という建物だけではない、家族がともに暮らした時に帰りたいという願望なのである。だから故郷とか家とかは長い時間を共有したものとしてあるからなかなか離れがたいのである。特に老人ににとってはそうである。老人はただ思い出だけになる。今さら思い出を新たに作ることはできないからそうなる。それで故郷や家から切り離されることが深刻な問題となるのだ。そして遂には墓に入りますと言って死んだ高齢者がいたこともその気持ちがわかるのである。


時制がない日本の言葉
http://www.musubu.jp/jijimondai28.htm#en

posted by 老鶯 at 09:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 地震津波関係
この記事へのコメント
英語には、時制がある。
一つの事態 (State of Affairs) は、現在・過去・未来の3世界においてそれぞれ独立に考えることができる。
理想は、非現実の内容であるが、現在以外の世界 (過去と未来) では存在可能な事態である。

日本語には、時制がない。
だから、日本語脳では以下のことが起こる。

過去のことを過去のことと信じることができない。(岡本公三の例)
歴史を歴史として考えることができない例を、イザヤ・ベンダサンは自著 <日本教について> の中で以下のように説明しています。

たとえば「ロッド空港事件」の岡本公三が属していた赤軍派です。彼らの主なメンバーは、銃砲店でライフル銃を強奪して、ある有名な別荘地の山荘に立てこもったのですが、その理由は毛沢東が「銃口から政権が生まれる」と言ったので、その通りに実行したと言われております。これは彼らに「なるほど、歴史のある時期には、『銃口から政権が生まれる』といえる時代もあったのだ」と感じる感覚が全く欠如していることを示しています。そこでこの言葉を正しいとすることは、すぐさま銃をもって山荘にこもることに直結してしまうわけです。(引用終り)

未来のことを未来のことと信じることができない。
このようなわけで、日本人の考えには、常に「今、ただちに、、、、、」を考慮に入れなくてはにならない。
さもなければ、日本人の発言は空想になる。だから、自己の理想の内容を表現することは至難の技である。
菅直人首相も、オバマ大統領にならって、「日本が原発のない世界の平和と安全を実現するために取り組んでいくと、はっきりと信念を持って宣言する」とし、「すぐにたどり着けるゴールではない。私が生きている間には、おそらく無理だろう。忍耐と粘り強さが必要だ。しかし、わたしたちは、世界は何も変わらないという声を無視しなければならない」などと訴えたらどうであろうか。ナウな感じを求めている日本人には何の感動を与えるものにもならないであろう。

日本人は、ただ現在のことを現在のこととして信じることができる。そればかりである。
現在のこととは、「世の中は、、、、、」で始まる現実の内容のことである。
実況放送・現状報告の内容ばかりでは、この先の見通しが立たないので、不安感、閉塞感がぬぐえない。
自己の身を守る者は自分自身であるが、自己の意思 (未来時制の内容) が持てないので意思決定に支障が生じ、神頼みとなる。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

空想: 現実にはありえないこと。現実とは何ら関係のないことを、頭の中だけであれこれと思いめぐらすこと。
理想: 考えうる最も完全なもの。また、最前の目的。

Posted by noga at 2011年09月02日 09:55
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